「江の島合戦」の版間の差分

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新しいページ: 「'''江の島合戦'''(えのしまかっせん)は、室町時代後期の宝徳2年(1450年4月21日に、相模国江の島(現在の神奈川県藤沢市)周辺にて行われた合戦である。 == 概要 == 室町時代、関東地方の統治は鎌倉公方とそれを補佐する関東管領からなる鎌倉府体制によって担われていたが、永…」
 
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室町時代、[[関東地方]]の統治は[[鎌倉公方]]とそれを補佐する[[関東管領]]からなる[[鎌倉府]]体制によって担われていたが、[[永享の乱]]で[[足利持氏]]が自害して以降、鎌倉公方はしばらくの間置かれず、関東管領だった[[上杉憲実]]も職を辞し隠遁していた。そのため、関東の政治は憲実の弟・[[上杉清方|清方]]や[[上杉氏]]の[[家宰]]である[[長尾氏]]・[[太田氏]]を中心に行われていた。しかし、秩序の核が不在になってしまった影響は大きく、持氏の遺児を擁した[[結城氏朝]]が挙兵する[[結城合戦]]が起こるなど、上杉氏と有力国人衆との対立が顕在化していく。
 
そのような状況を解消するため、[[文安]]4年(1447([[1447]])に持氏の遺児・万寿王丸(後の[[足利成氏]])が[[鎌倉]]に入り、新たな鎌倉公方として迎えられた。一方、[[室町幕府]]は憲実の子息・[[上杉憲忠]]を擁立して鎌倉に入れ、関東管領に就任させた。こうして鎌倉府体制が再建され、新たな秩序の形成が望まれたが、憲忠は若年であったため、家宰の[[長尾景仲]](昌賢)・[[太田資清]](道真)の専横が目立ち始めた。
 
[[宝徳]]2年([[1450年]])4月、ついに長尾・太田勢が鎌倉の公方御所を襲撃した。成氏は態勢を立て直すため、20日の夜に[[江の島]]に移った。翌日、長尾・太田勢は成氏を追って[[腰越]]に向け進軍し、成氏方の[[小山持政]]が[[七里ヶ浜]]で防戦するも敗退した。その後、長尾・太田勢は[[由比ヶ浜]]へ押し寄せたが、成氏方の[[千葉胤将]]・[[小田持家]]・[[宇都宮等綱]]らが応戦し、これを撃退した。多数の討死者が出た長尾・太田勢は糟谷荘([[伊勢原市]])に退いた。憲忠は事件に全く関与していなかったが、責任を取って七沢山に謹慎した。