「安積親王」の版間の差分

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== 来歴 ==
神亀5年(728年)に聖武天皇の第2皇子として生まれる<ref>上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 22頁。</ref>。同年9月13日に[[皇太子]]の[[基王|基皇子]]が死去したため、聖武天皇唯一の皇子であり、皇太子の最も有力な候補となった。しかし、天平10年([[738年]])1月13日に[[光明皇后]]を母に持つ[[孝謙天皇|阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)]]が立太子される。
 
安積親王が皇位継承者になれなかった理由として藤原氏の影響とも言われているが、藤原四兄弟の死後も皇位継承者に立てる動きがなかったことから、自身も藤原氏出身の母を持つ聖武天皇が藤原氏出身の后妃(光明皇后・[[藤原北夫人]]・[[藤原南夫人]])が生んだ皇子を皇位継承者にする構想を描いていた影響を被ったとする説<ref>河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』(吉川弘文館、2014年、P74-93)初版は1986年。なお、この説を唱える河内は聖武天皇自身の皇位継承の正当化のためにも藤原氏の血を引いていない安積親王の立太子には消極的であったとする立場から、藤原氏が親王を暗殺するメリットがないとする見解を述べている。</ref>もある。
 
天平8年([[736年]])5月、すでに[[斎宮|伊勢斎王]]になっていた姉・[[井上内親王]]のために[[写経]]をおこなっている<ref>『大日本古文書』</ref>。天平15年([[743年]])には[[恭仁京]]にある[[藤原八束]]の邸にて宴を開いているが、この宴には当時[[内舎人]]であった[[大伴家持]]も出席しており、家持が詠んだ歌が『[[万葉集]]』に残されている。