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一方、ジョチ・ウルスはバトゥの主導によって[[フレグ]]の西方遠征にも親族を幾人か派遣していた。すなわち長兄オルダ家の次男'''クリ'''を1万戸ともに派遣し、弟であるシバンの四男'''バラカン'''、同じくボアルの次男メンクカダルの息子'''トタル'''([[ノガイ]]の従兄弟)などであった。
 
モンケ没後の混乱でベルケは西征軍に参加していたジョチ家王族の回収を行っている。[[1256年]]にフレグの遠征に従軍中のバラカンがフレグを呪詛したらしいという事件が起った。バラカンは捕縛されベルケのもとに送還されたが、この時の査問でバラカンは呪詛した罪を認めたため、裁定をフレグに一任して彼をフレグのもとに送り返した。このためバラカンは処刑されたが、さらにこの直後にクリとトタルまで急死した。二人の不審死は毒殺だという噂が流れたため、フレグとジョチ・ウルスとの間に深刻な対立が根付いてしまった。あるいは[[アイン・ジャールートの戦い]]の敗北の後の宴席でバラカンが急死し、これを毒殺と疑ったトタルがフレグを呪詛したためベルケのもとに送られ再度フレグによって[[1260年]][[2月2日]]に処刑され、クリも急死したともいわれる。
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彼は新[[サライ (都市)|サライ]]を建設したことでも有名である。これを'''ベルケ・サライ'''と呼ぶ。『集史』によるとベルケには息子がいなかったと記録されているが、娘もいなかったかは述べられていない。彼の死後、[[マング・ティムール|モンケ・テムル]]が後を継いだ。
 
 
 
== ベルケとイスラーム ==