アレクサンドリーネ・フォン・ハーナウ=ホロヴィッツ

アレクサンドリーネ・フリーデリケ・ヴィルヘルミーネ・フォン・ハーナウ・ウント・ツー・ホロヴィッツAlexandrine Friedrike Wilhelmine Prinzessin von Hanau und zu Hořowitz, 1830年12月22日 - 1871年12月20日)は、最後のヘッセン選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の次女。

アレクサンドリーネ・フォン・ハーナウ=ホロヴィッツ
Alexandrine von Hanau und zu Hořowitz

出生 (1830-12-22) 1830年12月22日
フルダ
死去 (1871-12-20) 1871年12月20日(40歳没)
リンダウ
配偶者 フェリックス・ツー・ホーエンローエ=エーリンゲン
子女 一覧参照
家名 ハーナウ=ホロヴィッツ家
父親 ヘッセン選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム1世
母親 ゲルトルーデ・レーマン
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生涯 編集

ヘッセン選帝侯世子フリードリヒ・ヴィルヘルムとその愛人ゲルトルーデ・レーマンの間の2人目の私生児として生まれた。母はプロイセン陸軍少尉カール・ミヒャエル・レーマン(1787年 - 1882年)の妻であり、夫との間に2人の息子がいた。アレクサンドリーネと姉のアウグステは母とレーマン少尉の婚姻中に生まれたため、当初は戸籍上の父レーマンの姓を名乗った。母が1831年にレーマンと正式に離婚して実父の選帝侯世子と再婚すると、レーマンは2人の娘の父親であることを否認し、姉妹は実父フリードリヒ・ヴィルヘルムの娘だと認められた。ただし、両親の婚姻は貴賤結婚だったので、姉妹は母に授けられたシャウムブルク伯爵(夫人)の姓を名乗るに留まった。1853年に母がハーナウ侯夫人の爵位を授けられると、彼女と兄弟姉妹はハーナウ侯子・侯女の身分に格上げされた。

1851年6月12日にヴィルヘルムスヘーエ城ドイツ語版において、ホーエンローエ=エーリンゲン侯アウグストの三男フェリックス侯子(1818年 - 1900年)と結婚した。侯子は金銭的に困窮しており、卑賤な生まれの母を持つアレクサンドリーネの持参金欲しさに身分の不釣り合いな結婚を選択した。1866年に父がプロイセンとの戦争に敗れて廃位された後、アレクサンドリーネはヴェルフ家基金ドイツ語版から3000ターラーの年金を受け取った。

結婚後はハイデルベルクやリンダウで暮らした。死後、遺骸はカッセルの母の棺の隣に葬られた。

子女 編集

夫との間に2男4女をもうけた。

  • ヤドヴィガ(1857年 - 1940年) - 1879年、フランツ・エーリヒ・ツー・シュタイナウ・ウント・ホーエナウ伯爵と結婚
  • クラフト(1861年 - 1939年) - 1885年、マリー・ド・ヴァシナック=イメルクールと結婚(1901年離婚)
  • オルガ(1862年 - 1935年) - 1899年、ホーエンローエ=エーリンゲン侯家家長ハンス[1]と結婚
  • パウラ(1863年 - 1874年)
  • ルイーゼ(1867年 - 1945年) - 1885年にヴァルデック=ピルモント侯子アルブレヒト[2]と結婚、1913年にジョージ・グランヴィル=ホープ=ジョンストンと再婚
  • アレクサンダー(1871年 - 1929年) - 1895年にエルザ・フォン・オンダルツァと結婚、同年に家督相続権を放棄、ガーベルシュタイン男爵に改姓

参考文献 編集

  • Michel Huberty: L' Allemagne dynastique : Les 15 familles qui ont fait l'empire. Bd. 1: Hesse - Reuss - Saxe. Le Perreux-sur-Marne 1976. ISBN 2-901138-01-2.
  • Philipp Losch: Die Fürstin von Hanau und ihre Kinder. In: Hanauer Geschichtsblätter 13 (1939), S. 33 f.

脚注 編集

  1. ^ フェリックス侯子の兄ホーエンローエ=エーリンゲン侯フーゴーの四男。
  2. ^ ヴァルデック=ピルモント侯ゲオルク1世の七男カール・クリスティアン侯子(1803年 - 1846年)の長男。