テムデルモンゴル語: Temüder、? - 至治2年8月25日1322年10月6日))は、大元ウルスに仕えた政治家の一人。皇太后ダギの寵愛を受けて強権を振るい、国政を壟断した姦臣として知られる。

元史』における漢字表記は鉄木迭児(tiĕmùdiéér)。

概要 編集

生い立ち 編集

テムデルの出自については記録が少ないが、チンギス・カンに仕えたスケケン氏族のジェゲイ・コンダコルとスケゲイ・ジェウン父子の子孫ではないかとする説がある[1]。テムデルは唆海(=スケゲイ?)の息子のブリルギテイの息子のムルクチ(木児火赤)の息子として生まれ、クビライの治世より大元ウルスに仕え始めた。オルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)の治世には同知宣徽院事と通政院使を兼ねており、宮廷内の飲食を掌る宣徽院(バウルチ)に務めることによってテムデルは後に皇太后として絶大な権勢を振るうダギの寵遇を得ることになったのではないかとみられる[2]。オルジェイトゥ・カアンの死後、その甥でダギの長男にあたるクルク・カアン(武宗カイシャン)が即位すると、テムデルは昇進して宣徽院の長である宣徽院使に任じられた。至大元年(1308年)、江西行省平章政事[3]より雲南行省左丞相に転任となった[4]が、ほしいままに任地を離れて宮廷を訪れていたため、2年後の至大3年(1310年)にクルク・カアンが新設した尚書省はこれを問題視し詰問しようとしていた。しかし、以前からテムデルを気に入っていた皇太后のダギはこれを庇い[5]、ダギの命令によってテムデルは復職し地位を保った[6]

第一次丞相時代 編集

至大4年(1311年)、クルク・カアンが急死すると、皇太子であった弟のアユルバルワダと皇太后のダギが実権を握り、クルク・カアンの側近たちの大部分を処刑した。あまりにも急すぎするクルク・カアンの死、その側近たちの大量処刑、そしてクルク・カアンの遺児たちへの迫害から、一連の政変はダギ‐アユルバルワダ一派による事実上のクーデターであったとみられる[7]。処刑されたサンバオヌに代わって中書右丞相(中書省の長官)に抜擢されたのがテムデルで[8]、アユルバルワダがブヤント・カアンとして即位すると、上都に移ったブヤント・カアンに代わって大都を治めるという大役を任された[9]

最初の失脚 編集

しかし、皇慶2年(1313年)に病気療養のため一時中書右丞相の地位を退き、トゥクルクに地位を譲った[10][11]。このテムデルの離職はダギから「押しつけられた人事」であるテムデルを嫌ったブヤント・カアンが図ったものであるとする説があり[12][13]、この時御史大夫・太傅という高い地位に抜擢されたバイク(伯忽)[14]は以後テムデルの対抗馬として政権No.2の地位を保持する[13]。しかし、延祐元年(1314年)に皇慶から延祐に改元されると、ダギの寵臣の一人であるハサンが「統治に練達したテムデルを復職すべきである」と上奏し、遂にブヤント・カアンもテムデルの復職を認め同年八月に中書右丞相に任命された[15]。中書右丞相としてテムデルは財政再建に取り組み、各地で増税を実施したが、拙速な増税によって江南で叛乱が生じたため、早くも増税政策は撤回されたという[16]

第二次丞相時代 編集

延祐2年(1315年)に入ると、テムデルをはじめダギ側近の者達による旧カイシャン(クルク・カアン)派勢力を一掃する計画が始まった。そもそも、カイシャンが即位した際に「即位に功績のあった弟のアユルバルワダを皇太子とする代わりに、アユルバルワダが帝位に即いた時にはカイシャンの息子(コシラ)を次の皇太子とする」という約定があり、それを元にしてアユルバルワダは即位することができたのであったが、テムデルらはこの約定を公然と無視しコシラ及び旧カイシャン派勢力を一挙に排除しようとする計画を立てた。まず、旧カイシャン派最大の実力者であるアスカンの地位(太師)が剥奪されてテムデルに与えられ[17]、次いで「雲南地方への出鎮」という名目の下コシラが次期皇太子の座から引きずり下ろされた。更に延祐3年(1316年)、雲南に向かう途中のコシラがアスカンと組んで叛乱を起こそうとすると、ブヤント・カアン政権への内通者によって叛乱は未然に鎮圧され(関陝の変)、同年末には満を持してブヤント・カアンの実子のシデバラが皇太子の地位に即いた[18]。旧カイシャン派有力者を引きずり下ろし一箇所にまとめ、敢えて叛乱を起こさせて一挙に排除し、シデバラを皇太子に即けるというのは全て計算尽くの計画であり、その実行者こそがテムデルであった[19]。また、この陰謀と並行してテムデルは宣政院の長官である宣政院事にも任命されているが、これはかつてクビライ時代末期にサンガが右丞相と宣政院事を兼ねたように、テムデルが事実上の最高権力者としての地位を確立したことを意味するものであった[20][21]。テムデルの宣政院事就任以後、宣政院はチベット仏教に耽溺するダギの意向を反映して仏教優遇的な政策を主軸とするようになる[22]

二度目の失脚 編集

しかし、テムデルらにとって誤算であったのは肝心のコシラを取り逃がしてしまったことで、西方に逃れたコシラは中央アジアで展開されていた大元ウルスとチャガタイ・ウルスの軍事衝突(アユルバルワダ・エセンブカ戦争)を調停し、両者の支持を受けて中央アジアに独自の勢力を築き上げた。コシラ側についたキプチャク人将軍トガチは大元ウルス領に逆侵攻してモンゴリア〜陝西・甘粛一帯を震撼させ(トガチの乱)、ダギ‐テムデル一派の威信は急速に低下した。この頃からバイクを長官とする監察御史よりテムデルを弾劾する声が挙がるようになり、特に延祐4年(1317年)6月には蕭バイジュ楊ドルジらを始めとする40名あまりによってテムデルの「奸貪不法」が弾劾された。この報告を受けてブヤント・カアンはかねてから対立していたテムデルを処刑すべく命令したが、テムデルはダギの住まう興聖宮に逃げ込んだため手出しができなくなった。この間、ブヤント・カアンは酒も飲まずテムデルの追求を進めようとしていたが、最終的にはダギの意思を尊重してテムデルを処刑するのは取りやめ、太師右丞相の地位を罷免するに留まった[23][24][25]

第三次丞相時代 編集

こうして一度は政治の表舞台から去ったテムデルであるが、ダギはもとよりテムデルを完全に引退させるつもりはなく、ブヤント・カアンが体調を崩し始めた延祐6年(1319年)、テムデルは突如皇太子シデバラの太子太師に任じられた[26]。この報は内外に波紋を呼び、趙世延ら監察御史の者達は再びテムデルの不法行為を弾劾したが、結局はダギの強い意向によりテムデルは失脚しなかった[27]。延祐7年(1320年)、ブヤント・カアンが崩御すると、その僅か4日後にダギの意向によって中書右丞相に再任用された[28]。復帰したテムデルは皇太子シデバラが正式に即位しない内からかつて自分を弾劾した蕭バイジュと楊ドルジを捕らえて処刑し、その財産を没収したため人々はテムデルの横暴振りに恟懼した[29][30]。ブヤント・カアンの崩御から49日後、皇太子シデバラはゲゲーン・カアンとして即位したが、名実共にダギ‐テムデルの傀儡に過ぎないシデバラの即位式はこれまでにない参加者の少ないものであった[31]

ゲゲーン・カアンの治世 編集

位人臣を極めた[32]テムデルは自らの政敵を追い詰めることに余念が無く、同年5月には自らに従わなかった賀バヤンを殺した[33]。一方、新たに即位したゲゲーン・カアンは権力を擅にするダギ‐テムデルの強権を嫌っており、建国以来の名家出身たるバイジュを起用し、ダギ‐テムデル派のシレムン・ハサンらを廃立計画の首謀者として処刑した。更に、このシレムン・ハサンのみならずテムデルが殺した賀バヤンからも没収された資産を当てつけとしてテムデルに与えた[34]。続いてテムデルはかつて自身を弾劾した趙世延をも同様に処刑しようとしたが、ゲゲーン・カアンが毅然としてテムデルの要望を退け、結果として趙世延は死を免れた[35][36]。このようにしてダギ‐テムデルの言いなりにならない姿勢を示したゲゲーン・カアンは次第に権力を掌握してゆき、実権を失ったダギとテムデルは至治2年(1322年)8月に相継いで亡くなった[37][38]

死後 編集

ダギとテムデルが亡くなると、ゲゲーン・カアンは早速ダギ‐テムデル派の排除に乗り出し、テムデルのあらゆる官職は剥奪され、息子のバルギスは罪状を得て資産は没収された[39][40][41]。しかし、あまりにも苛烈な旧テムデル派の粛正はゲゲーン・カアンへの反発を呼び、テクシを中心とするゲゲーン・カアンの暗殺計画が進められることになった。こうして至治3年8月4日(1323年9月4日)、テクシ等はゲゲーン・カアンを南坡の地で暗殺した(南坡の変)が、実行犯の中にはテムデルの息子のソナムも含まれていた[42][43]

世系 編集

  • オクダ・ボオル(Oqda bo'ol)
    • スベゲイ・ボオル(Sübegei bo'ol)
      • ココチュ・キルサガン(Kököčü kirsaγan)
        • ジェゲイ・コンダコル(J̌egei qondaqol)
          • スケゲイ・ジェウン(Sükegei J̌e'ün >速客該 者温/sùkègāi zhěwēn)=唆海(suōhǎi)?
            • ブリルギテイ(Bürilgitei >不憐吉帯/bùliánjídài)
              • ムルクチ(Mürqoči >木児火赤/mùérhuǒchì)
                • テムデル(Temüder >鉄木迭児/tiĕmùdiéér)
                  • バルギス(Bargis >八里吉思/bālǐjísī)
                  • バルタン(Bartan >班丹/bāndān)
                  • ソナム(Sonam >鎖南/suǒnán)

『蒙兀児史記』巻152氏族表第4之1蒙兀氏族上に拠る。ただし、速客該=唆海説を裏付ける史料があるわけではない。

脚注 編集

  1. ^ 清末の歴史学者屠寄はスケゲイの漢字表記「速客該(sùkègāi)」「雪也垓(xuĕyĕgāi)」と『元史』テムデル伝に記されるテムデルの曾祖父「唆海(suōhǎi)」の音が似ていることから、両者は同一人物であってテムデルはスケゲイの曾孫にあたる人物であると推測している(『蒙兀児史記』巻122鉄木迭児等伝)
  2. ^ 藤島(1973), p. 18.
  3. ^ 『元史』巻22武宗本紀1,「[大徳十一年秋七月]丁丑……平章政事鉄木迭児為江西行省平章政事」
  4. ^ 『元史』巻22武宗本紀1,「[至大元年夏四月]戊戌……加鉄木迭児右丞相」
  5. ^ 『元史』巻23武宗本紀2,「[至大三年冬十月]……壬申、雲南省丞相鉄木迭児擅離職赴都、有旨詰問、以皇太后旨貸免、令復職」
  6. ^ 『元史』巻205列伝92姦臣鉄木迭児伝,「鉄木迭児者、木児火赤之子也。嘗逮事世祖。成宗大徳間、同知宣徽院事、兼通政院使。武宗即位、為宣徽使。至大元年、由江西行省平章政事、拝雲南行省左丞相。居二載、擅離職赴闕、尚書省奏、奉旨詰問、尋以皇太后旨、得貸罪還職」
  7. ^ 杉山(1995), p. 115-117.
  8. ^ 『元史』巻24仁宗本紀1,「[至大四年春正月]丁酉、以雲南行中書省左丞相鉄木迭児為中書右丞相」
  9. ^ 『元史』巻205列伝92姦臣鉄木迭児伝,「明年正月、武宗崩、仁宗在東宮、以丞相三宝奴等変乱旧章、誅之。用完沢及李孟為中書平章政事、鋭欲更張庶務。而皇太后在興聖宮、已有旨、召鉄木迭児為中書右丞相。踰月、仁宗即位、因遂相之。及幸上都、命鉄木迭児留守大都、平章完沢等奏『故事、丞相留治京師者、出入得張蓋。今右丞相鉄木迭児大都居守、時方盛暑、請得張蓋如故事』。許之。是年冬、制贈鉄木迭児曾祖唆海翊運宣力保大功臣・太尉、諡武烈、祖不憐吉帯推誠保徳定遠功臣・太尉、諡忠武;父木児火赤推忠佐理同徳功臣・太師、諡忠貞並開府儀同三司・上柱国、追封帰徳王」
  10. ^ 『元史』巻205列伝92姦臣鉄木迭児伝,「皇慶元年三月、鉄木迭児奏『臣誤蒙聖恩、擢任中書、年衰且病、雖未能深達政体、思竭忠力、以図報效、事有創行、敢不自勉、前省弊政、方与更新。欽惟列聖相承、混一区宇、日有万幾、若非整飭、恐致解弛。継今朝夕視事、左右司六部官有不尽心者、当論決、再不俊者、黜勿叙、其有託故僥倖他職者、亦不叙』。仁宗是其言。既而以病去職」
  11. ^ 『元史』巻112宰相年表1にはテムデル(帖木迭児)が皇慶2年正月一日に右丞相の地位を辞して代わりにトゥクルク(禿忽魯)が後を継ぎ、翌延祐元年2月まで右丞相を務めたと記される
  12. ^ 藤島(1973), p. 20.
  13. ^ a b 杉山(1995), p. 134.
  14. ^ 『元史』巻24仁宗本紀1,「[皇慶二年春正月]甲午、以察罕脳児等処宣慰使伯忽為御史大夫。……[夏四月]辛巳、加御史大夫伯忽開府儀同三司・太傅」
  15. ^ 『元史』巻25仁宗本紀2,「[延祐元年八月]己巳、復以鉄木迭児為右丞相、合散為左丞相」
  16. ^ 『元史』巻205列伝92姦臣鉄木迭児伝,「延祐改元、丞相哈散奏『臣非世勲族姓、幸逢陛下為宰相、如丞相鉄木迭児、練達政体、且嘗監修国史、乞授其印、俾領翰林国史院、軍国重務、悉令議之』。仁宗曰『然。卿其啓諸皇太后。与之印、大事必使預聞』。遂拝開府儀同三司・監修国史・録軍国重事。居数月、復拝中書右丞相、合散為左丞相。鉄木迭児奏『蒙陛下憐臣、復擢為首相、依阿不言、誠負聖眷。比聞内侍隔越奏旨者衆、倘非禁止、致治実難。請勅諸司、自今中書政務、毋輒干預。又往時富民、往諸蕃商販、率獲厚利、商者益衆、中国物軽、蕃貨反重。今請以江浙右丞曹立領其事、発舟十綱、給牒以往、帰則征税如制;私往者、没其貨。又、経用不給、苟不預為規画、必至愆誤。臣等集諸老議、皆謂動鈔本、則鈔法愈虚;加賦税、則毒流黎庶;増課額、則比国初已倍五十矣。惟預買山東・河間運使來歳塩引、及各冶鉄貨、庶可以足今歳之用。又、江南田糧、往歳雖嘗経理、多未覈実。可始自江浙、以及江東・西、宜先事厳限格・信罪賞、令田主手実頃畝状入官、諸王・駙馬・学校・寺観亦令如之;仍禁私匿民田、貴戚勢家、毋得沮撓。請勅台臣協力以成、則国用足矣』。仁宗皆従之。尋遣使者分行各省、括田増税、苛急煩擾、江右為甚、致贛民蔡五九作乱寧都、南方騷動、遠近驚懼、乃罷其事」
  17. ^ 『元史』巻25仁宗本紀2,「[延祐二年冬十月]丁酉、加授鉄木迭児太師」
  18. ^ 『元史』巻25仁宗本紀2,「[延祐三年十二月]丁亥、立皇子碩徳八剌為皇太子、兼中書令・枢密使、授以金宝、告天地宗廟」
  19. ^ 『元史』巻27明宗本紀,「武宗崩、仁宗立、延祐三年春、議建東宮、時丞相鉄木迭児欲固位取寵、乃議立英宗為皇太子、又与太后幸臣識烈門譖帝於両宮。浸潤久之、其計遂行。於是封帝為周王、出鎮雲南。置常侍府官属、以遙授中書左丞相禿忽魯・大司徒斡耳朶・中政使尚家奴・山北遼陽等路蒙古軍万戸孛羅・翰林侍講学士教化等並為常侍、中衛親軍都指揮使唐兀・兵部尚書賽罕八都魯為中尉、仍置諮議・記室各二員、遣就鎮。是年冬十一月、帝次延安、禿忽魯・尚家奴・孛羅及武宗旧臣釐日・沙不丁・哈八児禿等皆来会。教化謀曰『天下者我武皇之天下也,出鎮之事,本非上意,由左右搆間致然。請以其故白行省、俾聞之朝廷、庶可杜塞離間、不然、事変叵測』。遂与数騎馳去。先是、阿思罕為太師、鉄木迭児奪其位、出之為陝西行省丞相、及教化等至、即与平章政事塔察児・行台御史大夫脱里伯・中丞脱歓、悉発関中兵、分道自潼関・河中府入。已而塔察児・脱歓襲殺阿思罕・教化于河中、帝遂西行、至北辺金山」
  20. ^ 『元史』巻205列伝92姦臣鉄木迭児伝,「明年、鉄木迭児奏『天下庶務、雖統於中書、而旧制、省臣亦分領之。請以銭帛・鈔法・刑名、委平章李孟・左丞阿卜海牙・参政趙世延等領之。其糧儲・選法・造作・駅伝、委平章張驢・右丞蕭拝住・参政曹従革等領之』。得旨如所請。七月、詔諭中外、命右丞相鉄木迭児総宣政院事。十月、進位太師。十一月、大宗正府奏『累朝旧制、凡議重刑、必決於蒙古大臣、今宜聴於太師右丞相』。従之」
  21. ^ 『元史』巻25仁宗本紀2,「[延祐二年秋七月]癸酉……命鉄木迭児総宣政院事、詔諭中外」
  22. ^ 藤島(1973), p. 26ー27.
  23. ^ 『元史』巻205列伝92姦臣鉄木迭児伝,「鉄木迭児既再入中書、居首相、怙勢貪虐、凶穢滋甚。於是蕭拝住自御史中丞為中書右丞、尋拝平章政事、稍牽制之。而楊朶児只自侍御史拝中丞、慨然以糾正其罪為己任。上都富人張弼殺人繋獄、鉄木迭児使家奴脅留守賀伯顔、使出之、伯顔持正不可撓。而朶児只已廉得丞相所受張弼賂有顕徴、乃与拝住及伯顔奏之『内外監察御史凡四十餘人、共劾鉄木迭児桀黠姦貪、陰賊険狠、蒙上罔下、蠹政害民、布置爪牙、威讋朝野、凡可以誣陥善人・要功利己者、靡所不至。取晋王田千餘畝・興教寺後壖園地三十畝・衛兵牧地二十餘畝。窃食郊廟供祀馬。受諸王合児班答使人鈔十四万貫、宝珠玉帯𣰽毺幣帛又計鈔十餘万貫。受杭州永興寺僧章自福賂金一百五十両。取殺人囚張弼鈔五万貫。且既已位極人臣、又領宣政院事、以其子八里吉思為之使。諸子無功於国、尽居貴顕。縦家奴陵虐官府、為害百端。以致陰陽不和、山移地震、災異数見、百姓流亡、己乃恬然略無省悔。私家之富、又在阿合馬・桑哥之上。四海疾怨已久、咸願車裂斬首、以快其心。如蒙早加顕戮、以示天下、庶使後之為臣者、知所警戒』。奏既上、仁宗震怒、有詔逮問、鉄木迭児匿興聖近侍家、有司不得捕。仁宗不楽者数日、又恐誠出皇太后意、不忍重傷咈之、乃僅罷其相位而已」
  24. ^ 『元史』巻25仁宗本紀2,「[延祐四年]六月乙巳……内外監察御史四十餘人劾鉄木迭児奸貪不法。戊申、鉄木迭児罷、以左丞相合散為中書右丞相」
  25. ^ 杉山(1995), p. 133-134.
  26. ^ 『元史』巻25仁宗本紀2,「[延祐六年夏四月]庚子、車駕幸上都。以鉄木迭児為太子太師。内外監察御史四十餘人、劾其逞私蠹政、難居師保之任、不聴」
  27. ^ 『元史』巻205列伝92姦臣鉄木迭児伝,「鉄木迭児家居未逾年、又起為太子太師、中外聞之、莫不驚駭。参政趙世延為御史中丞、率諸御史論其不法数十事、而内外御史論其不可輔導東宮者、又四十餘人。然以皇太后故、終不能明正其罪」
  28. ^ 『元史』巻27英宗本紀1,「[延祐七年春正月]甲辰、太子太師鉄木迭児以太后命為右丞相」
  29. ^ 『元史』巻205列伝92姦臣鉄木迭児伝,「明年正月辛丑、仁宗崩。越四日、鉄木迭児以皇太后旨、復入中書為右丞相。又逾月、英宗猶在東宮、鉄木迭児宣太后旨、召蕭拝住与朶児只至徽政院、与徽攻院使失里門・御史大夫禿忒哈雑問之、責以前違太后旨、令伏罪。即起入奏、遽称旨、執二人棄市。是日、白晝晦冥、都人恟懼」
  30. ^ 『元史』巻27英宗本紀1,「[延祐七年二月]戊寅……鉄木迭児以前御史中丞楊朶児只・中書平章政事蕭拝住違太后旨、矯命殺之、並籍其家」
  31. ^ 杉山(1995), p. 135-137.
  32. ^ 『元史』巻27英宗本紀1,「[延祐七年三月]壬辰、太皇太后受百官朝賀於興聖宮。鉄木迭児進開府儀同三司・上柱国・太師」
  33. ^ 『元史』巻205列伝92姦臣鉄木迭児伝,「英宗将行即位礼、鉄木迭児恒病足、中書省啓『祖宗以來、皇帝登極、中書率百官称賀、班首惟上所命』。英宗曰『其以鉄木迭児為之』。既即位、鉄木迭児即奏委平章王毅・右丞高昉等徴理在京倉庫所貯糧、虧七十八万石、責償於倉官及監臨出内者。所貢幣帛紕繆者、責償於本処官吏之董其事者。仍立程厳督、違者杖之。五月、英宗在上都、鉄木迭児嫉留守賀伯顔素不附己、乃奏其以便服迎詔為不敬、下五府雑治、竟殺之。都民為之流涕」
  34. ^ 『元史』巻27英宗本紀1,「[延祐七年五月]丁未……以賀伯顔・失列門・阿散家貲、田宅賜鉄木迭児等」
  35. ^ 『元史』巻205列伝92姦臣鉄木迭児伝,「趙世延時為四川行省平章政事、鉄木迭児怒其昔嘗論己、方入相時、即従東宮啓英宗遣人逮捕之。世延未至、鉄木迭児使諷世延、啗以美官、令告引同時異己者、世延不肯従。至是、坐以違詔不敬、令法司窮治、請置極刑。英宗曰『彼罪在赦前、所宜釈免』。鉄木迭児対曰『昔世延与省台諸人謀害老臣、請究其姓名』。英宗曰『事皆在赦前矣、又焉用問』。後数日、又奏世延当処死罪、又不允。有司承望風旨、鍛錬欲使自裁、世延終無所屈、頼英宗素聞其忠良、得免於死」
  36. ^ 『元史』巻27英宗本紀1,「[延祐七年八月]戊午、鉄木迭児以趙世延嘗劾其奸、誣以不敬下獄、請殺之、並究省・台諸臣、不允」
  37. ^ 『元史』巻28英宗本紀2,「[至治二年八月]庚寅、鉄木迭児卒、命給直市其葬地」
  38. ^ 藤島(1973), p. 24ー25.
  39. ^ 『元史』巻28英宗本紀2,「[至治二年秋七月]丙辰……籍鉄木迭児家資」
  40. ^ 『元史』巻28英宗本紀2,「[至治二年十二月]甲戌……鉄木迭児子宣政院使八思吉思、坐受劉夔冒献田地伏誅、仍籍其家」
  41. ^ 『元史』巻205列伝92姦臣鉄木迭児伝,「鉄木迭児恃其権寵、乗間肆毒、睚眦之私、無有不報。英宗覚其所譖毀者、皆先帝旧人、滋不悦其所為、乃任拝住為左丞相、委以心腹。鉄木迭児漸見疏外、以疾死于家。御史蓋継元・宋翼、言其上負国恩、下失民望、生逃顕戮、死有餘辜。乃命毀所立碑、追奪其官爵及封贈制書、籍没其家」
  42. ^ 『元史』巻205列伝92姦臣鉄木迭児伝,「子班丹、知枢密院事、尋以贓敗、不叙。鎖南、嘗為治書侍御史、其後鉄失弑英宗、鎖南以逆党伏誅」
  43. ^ 杉山(1995), p. 123-124.

参考資料 編集

  • 藤島建樹「元朝における権臣と宣政院」『大谷学報』第52巻第4号、大谷学会、1973年2月、17-31頁、CRID 1050001201665456896ISSN 0287-6027NAID 120005819237 
  • 杉山正明大元ウルスの三大王国 : カイシャンの奪権とその前後(上)」『京都大學文學部研究紀要』第34巻、京都大學文學部、1995年3月、92-150頁、hdl:2433/73071ISSN 0452-9774NAID 110000056953 
  • 岡田英弘『モンゴル帝国から大清帝国へ』藤原書店、2010年。ISBN 9784894347724NCID BB03994625全国書誌番号:21853718 
  • 宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年。ISBN 9784815809003NCID BB25701312全国書誌番号:23035507 

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