フセヴォロド・ムスチスラヴィチ (ヴォルィーニ公)

フセヴォロド・ムスチスラヴィチロシア語: Всеволод Мстиславич1155年以降 - 1195年)は、ヴォルィーニ公ムスチスラフの子、ロマンの弟にあたる人物である。ベルズ公(在位:1170年 - 1195年)。ヴォルィーニ公(在位:1188年)。聖名はドミトリー。

フセヴォロド・ムスチスラヴィチ
Всеволод Мстиславич
ベルズ公
ヴォルィーニ公
在位 ベルズ公1170年 - 1195年
ヴォルィーニ公1188年

出生 1155年以降
死去 1195年
子女 アレクサンドル
フセヴォロド
家名 リューリク家
父親 ヴォルィーニ公ムスチスラフ
母親 アニェスカ・ボレスワヴヴナ
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生涯 編集

父の死後、ロマンがヴォルィーニ公を継ぎ、フセヴォロドら他の兄弟はヴォルィーニ公国の西部を分領公国として継いだ。(フセヴォロドはベルズ公、スヴャトスラフがベレスチエ公、ウラジーミルがチェルヴェン公[1]。)また、フセヴォロドはおじであるルーツク公ヤロスラフの軍事行動に参加し、1170年代の最初にキエフで戦った。ヤロスラフは1174年よりキエフ大公となった。

2人の弟の死後、ベレスチエはヴォルィーニ公国の所有地(ru)から分離し、チェルヴェンスクはベルズ公国から分離した。1188年、ロマンの最初のガーリチからの撤退の後、フセヴォロドはルーシの伝統的な継承法(ru)に従ってヴォルィーニ公となった。この時ロマンはフセスラフを攻撃せずにヴォルィーニへ帰り、フセヴォロドはヴォルィーニ公国の首都のウラジーミルを強化した。その後の、ポーランド人の援助をもってヴォルィーニ公位を取り戻そうとするロマンの画策は不首尾に終わった。しかし、オーヴルチ公でロマンの義父にあたるリューリクと、共同統治をしていたキエフ大公スヴャトスラフが介入するや否や、フセヴォロドはヴォルィーニ公位を譲ることになった。

1199年、既にフセヴォロドは死去していたが、公位を求めるロマンによる2度目の紛争が起きた。しかし1188年に、短期間とはいえフセヴォロドがヴォルィーニ公の座にあったことで、フセヴォロドの子たちはクニャージ・イズゴイ(継承権を持たない公)とはならずにすんでいた。よって1205年にロマンが死去した後に、ロマンの若い子たちよりも優先して、フセヴォロドの子がヴォルィーニ公位を正式に請求することができた。

妻子 編集

妻の名は不明である。子には以下の人物がいる。

出典 編集

  1. ^ Пресняков А. Е. Княжое право в Древней Руси. Лекции по русской истории. Киевская Русь — М.: Наука, 1993.

外部リンク 編集

先代
ベルズ公
1170年 - 1195年
次代
アレクサンドル・フセヴォロドヴィチ
先代
ロマン・ムスティスラーヴィチ
ヴォルィーニ公
1188年
次代
ロマン・ムスティスラーヴィチ