ラタン・シング (メーワール王)

ラタン・シング(Ratan Singh, 生年不詳 - 1303年)は、北インドラージャスターン地方メーワール王国の君主(在位:1302年 - 1303年)。

ラタン・シング
Ratan Singh
メーワール王
在位 1302年 - 1303年
別号 ラーナー

出生 不詳
死去 1303年
王朝 グヒラ朝
宗教 ヒンドゥー教
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生涯 編集

1303年デリーハルジー朝に首都チットールガルが包囲され、ラタン・シングはチットールガル城に籠城した[1][2]。その原因はその君主アラー・ウッディーン・ハルジーグジャラートに侵攻する際、メーワール王国内の通過を拒否したことにあった[1]。また、メーワールはアジメールからマールワーに至る道を支配していた[1]

また、アラー・ウッディーンはラタン・シングの王妃パドミニーに大変愛着を抱き、横恋慕しようとしたとも伝えられる[1]。パドミニーはシンガルドゥウィーパ(スリランカ)の王女で、ラタン・シングは7つの海を渡り、多くの冒険を重ねてチットールガルへと戻ったという。ただし、これは100年以上たってから語られ始めたので、歴史家たちはこれを単なる伝説と見ている[1]

包囲はこの年の1月から8月まで続き[3]、ハルジー朝の軍勢は城に激しい攻撃をかけた[1]。その間、ラタン・シングは講和を求めて降伏したが、傍系のラクシュマン・シングをリーダーに籠城して抵抗を続けた[3]。結局、城兵はジョウハルを行い、多数の兵が戦死し、チットールガルは陥落した[1][3]

ラタン・シングは生け捕りにされ、その後しばらくのうちは捕虜となっていたとされる[1]。一方、チットールガルの支配はアラー・ウッディーンの幼い長男ヒズル・ハーンに委ねられ[1][4]、「ヒズラーバード」に改称されてしばらくの間デリー・スルターン朝の支配が続いた[4]。この間、メーワール王国は一時中断したが、1326年頃に傍系シソーディヤー氏族ハンミーラがチットールガルを奪還し、再興された[4][5]

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g h i チャンドラ『中世インドの歴史』、p.96
  2. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.43
  3. ^ a b c 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.43
  4. ^ a b c 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.44
  5. ^ チョプラ『インド史』、p.100

参考文献 編集

  • サティーシュ・チャンドラ 著、小名康之、長島弘 訳『中世インドの歴史』山川出版社、2001年。 
  • 小谷汪之『世界歴史大系 南アジア史2 ―中世・近世―』山川出版社、2007年。 
  • P・N・チョプラ 著、三浦愛明 訳『インド史』法蔵館、1994年。 

関連項目 編集