巨勢 麻呂(こせ の まろ)は、飛鳥時代後期から奈良時代前期にかけての公卿小徳巨勢大海の孫で、京職大夫巨勢紫檀の子。官位従三位中納言

 
巨勢 麻呂
巨勢麻呂『前賢故実』より
時代 飛鳥時代後期 - 奈良時代前期
生誕 不明
死没 霊亀3年1月18日717年2月7日
官位 従三位中納言
主君 文武天皇元明天皇元正天皇
氏族 巨勢朝臣
父母 父:巨勢紫檀
兄弟 麻呂多益須
テンプレートを表示

経歴 編集

持統天皇7年(693年直広肆に叙せられる。大宝元年(701年)の大宝令施行に伴う位階制度の制定を通じて従四位下に叙せられ、慶雲2年(705年民部卿に任じられる。

元明朝に入ると、和銅元年(708年)3月に左大弁に任じられ、同年7月には二品穂積親王左大臣石上麻呂らと共に天皇に召されて、百寮に率先して官事に努めていることを賞され、麻呂は正四位下に昇叙された[1]。和銅2年(709年陸奥越後両国の蝦夷征討のため、麻呂が陸奥鎮東将軍に、佐伯石湯征越後蝦夷将軍に任ぜられる[2]。その後、和銅4年(711年)正四位上、和銅6年(713年従三位霊亀元年(715年中納言と元明朝で順調に昇進を果たした。

元正朝霊亀2年(716年出羽国において官人や人民が少なく狄徒(出羽国の蝦夷)も未だ十分に従っていない一方で、土地が肥沃で田野が広大であることから、近国の人民を出羽に移住させて凶暴な狄徒を教え諭すと共に、土地の利益を確保すべき旨を建言する。これに基づき朝廷では、陸奥国の置賜最上の2郡と、信濃上野越前・越後の4国の百姓それぞれ100戸を出羽国に移した[3]

霊亀3年(717年)1月18日薨去。最終官位は中納言従三位。

官歴 編集

六国史』による。

脚注 編集

  1. ^ 『続日本紀』和銅元年7月15日条
  2. ^ 『続日本紀』和銅2年3月5日条
  3. ^ 『続日本紀』霊亀2年9月23日条

参考文献 編集