弘一(こういつ、1880年10月23日 - 1942年10月13日)は、中華民国詩人禅僧音楽教育者、芸術教育者。本名は李叔同。又名は李息霜、李岸、李良、譜名は文涛、幼名は成蹊、学名は広侯、字は息霜、別号は漱筒。法名は演音、号は弘一と晩晴老人[1][2]仏教徒には「重興南山律宗第十一代祖師」と崇められたという。

弘一
1880年10月23日—1942年10月13日
弘一
幼名 李成蹊
李息霜、李岸、李良
法名 演音
晩晴老人
法号 弘一
尊称 弘一法師
生地 天津
没地 中華民国の旗 中華民国 福建省泉州
宗派 律宗
了悟和尚
印光大師
弟子 豊子愷
夏丏尊
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略歴 編集

 
李叔同の故居。

1880年、天津に生まれる。祖父は李鋭、父の李世珍は吏部主事。李叔同の親は敬虔な仏教徒だった。

1884年(光緒10年)、5歳の時、74歳の父は病気で亡くなった。

1885年、李叔同は啓蒙教育を受け始めた。

1887年、常雲荘に師事。李叔同は四書五経金石書道を勉強し始めた。

1895年、16歳の時、輔仁書院に入学。

1897年(光緒23年)、日本に出国する前、李叔同は母の命令で17歳の時に茶商の娘・兪氏と結婚し子供も3人(1人は夭折)儲けた。李叔同はピアノを1台買って、音楽作曲を始めた。李叔同は戊戌の変法を支持する。後、城南文社に入った。

1899年(光緒25年)、城南草堂に移り、袁希濂許幻園蔡小香張小楼と並んで「天涯五友」と称される。画家任伯年と上海書画公会を創設。

1901年、南洋公学(現在の西安交通大学上海交通大学の前身)経済特科班に入学、蔡元培に師事。

1903年、李叔同と許幻園、黄炎培等人は上海で「滬学会」を設立する。

1905年、李叔同の母親が病気で亡くなった。

1906年、日本の上野美術学校に留学して西洋画を学び、革命活動に関わった。(前期)文芸協会に参加した。秋、芸術団体「春柳社」を創立した。随鴎吟社に入った。

 
弘一の塔。

1907年(光緒33年)、春柳社が2月に『茶花女』(椿姫)を試演し成功、李叔同は主役のマルグリットを演じる。6月に正式公演として『黒奴籲天録』(アンクル・トムの小屋)を上演し大成功した。李叔同はエミリーを演じた。この公演が、中国話劇の起点とされる[3]。またおそらくこの年「旅愁 (唱歌)」に触れ、後に「送別」の題で中国語の歌詞をつける。

1908年(光緒34年)、春柳社退社。

1911年、李叔同に日本留学中には日本女性・葉子(映画では雪子)と恋に落ちて結婚し彼女を伴って帰国している。在学中、同級生柏木正賢と仲良く、帰国して後書簡でお互いに画作の研究を行う。同年、李叔同は直隷高等工業学堂で図画教師を務めている。

1912年、城東女学教員、李叔同は文学と音楽の授業をして。南社に入った。

1914年、西泠印社に入った。と呉昌碩「楽石社」を設立する。

1915年、南京高等師範学校図画と音楽教員。寧社を設立する。

1918年、39歳で浙江省杭州虎跑寺にて出家得度。了悟和尚に師事。9月、杭州の霊隠寺比丘戒を受ける。

1919年、井亭庵に住した。玉泉清漣寺に移り、その後は杭州虎跑に定慧寺を建てて隠居したが、その後も霊隠寺を学ぶ。

1920年の春季、玉泉寺に住した。6月、衢州蓮花寺[要曖昧さ回避]に移り。

1921年3月、温州慶福寺に住した。

1924年4月、三藏寺に住した。5月、普陀山印光大師に師事。

1925年、寧波七塔寺、杭州彌陀寺、定慧寺などで仏教を学ぶ。

1926年、杭州招賢寺に住した。

1927年、杭州常寂光寺に住した。7月、本来寺に移り。

1929年、廈門南普陀寺の閩南仏学院に住した。

1930年、泉州承天寺慈溪金仙寺、温州慶福寺に仏法を宣揚する。

1931年、寧波法界寺鎮海伏龍寺を遊学、弘一は律宗帰依する。

1933年、妙釈寺開元寺、承天寺に仏法を宣揚する。

1934年、弘一は廈門南普陀寺の閩南仏学院で律宗教師をしている。

1935年、泉州開元寺、淨峰寺、承天寺に仏法を宣揚する。

1936年、弘一は泉州草庵で療養する。後、南普陀寺に住した。

1938年、承天寺、梅石書院、開元寺、清塵堂、漳州南山寺に仏法を宣揚する。後、温陵養老院に移り。

1939年4月、蓬壺毗峰普済寺に住した。

1940年10月、南安霊應寺に仏法を宣揚する。

1941年、晋江福林寺、泉州百原寺、開元寺に仏法を宣揚する。

1942年、泉州不二祠温陵養老院晩晴室にて示寂。

作品 編集

音楽 編集

  • 『祖国歌』
  • 『我の国』
  • 『哀祖国』
  • 『大中華』
  • 『幽居』
  • 『春遊』
  • 『早秋』
  • 『西湖』
  • 『送別』
  • 『落花』
  • 『悲秋』
  • 『晩鐘』
  • 『月』

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書道 編集

弘一の書道の早期生まれ変わること魏碑、筆勢変化に富んでいる、逸宕ひらめき。後期は自成型一体、朴野清淡。

著名な作品 編集

送別(日本語での題は『旅愁』。)
原文 書き下し文 通釈
長亭外、古道邊、  長亭の外(はづれ)、古道の邊(あたり) 町外(はず)れの、古びた道(には)。
芳草碧連天。 芳草碧(みどり)天に連なる。 草花の緑が、地の果てまで続いている。
晩風拂柳笛聲殘、 晩風は柳を拂(はら)ひ笛聲殘(すた)りて, 夕方に吹く風がヤナギの条(えだ)を払うかのように揺らして、笛の音はだんだんと消えて行き。
夕陽山外山。  夕陽は山外の山。 夕日が奥山に(沈もうとしている)。
天之涯、地之角、  天の涯(はて)、地の角(すみ)に, 天の涯(はて)、地の果て(にて)。
知交半零落。  知交半(なか)ば零落す。 友人も、もう半ばは死んで亡くなっていよう。
一觚濁酒盡餘歡、  一觚(こ)の 濁酒餘歡を盡(つく)せど, 一杯の濁醪(どぶろく)で、最後の名残の楽しみを尽くそう。
今宵別夢寒。  今宵別夢寒からん。 今夜は、別れを告げた後の眠りなので、寒々としていよう。

 

脚注 編集

  1. ^ “世俗的转身——李叔同” (中国語). 鳳凰網. (2016年3月29日). http://ah.ifeng.com/a/20160329/4411705_0.shtml 
  2. ^ “泉州参观弘一法师遗世瑰宝 为何临终绝笔为悲欣交集” (中国語). (2016年3月3日). http://www.takefoto.cn/viewnews-696708.html 
  3. ^ 瀬戸宏『中国話劇成立史研究』(東方書店 2005年)