徳川 義宜(とくがわ よしのり)は、江戸時代末期の大名尾張藩の第16代(最後)の藩主、尾張藩知事官位従三位左近衛権中将

 
徳川 義宜
時代 江戸時代末期 - 明治時代
生誕 安政5年5月24日1858年7月4日
死没 明治8年(1875年11月24日
改名 元千代(幼名)→徳成→義宜
別名 義宣、号:松堂、靖公
戒名 隆徳院殿
官位 従三位左近衛権中将
幕府 江戸幕府
主君 徳川家茂慶喜明治天皇
尾張藩主→名古屋藩知事
氏族 尾張徳川家
父母 父:徳川慶勝、母:武藤氏娘・お玉の方
養父:徳川茂徳
兄弟 義宜、道姫、登代姫良姫、富姫、義恕
婚約者:有栖川宮幟仁親王四女・利子女王
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生涯 編集

14代藩主・徳川慶勝の三男として誕生した。幼名は元千代。慶勝は元千代誕生から間もなく隠居を余儀なくされたが、幕命により元千代は跡を継いだ叔父の15代藩主・徳川茂徳の養子となり、茂徳より1字を与えられて初名の徳川徳成(ながなり)[1]を名乗る(のちに養親子関係は解消された)。元治元年(1864年)に茂徳も隠居したため6歳で家督を継ぎ、義宜(表記は義宣とも)に改める。

しかし幼少のため、執政は父・慶勝によってほとんど成されたという。慶応4年(1868年)、戊辰戦争が起こると父と共に新政府軍に帰属し、新政府軍が東海道江戸に向けて出征を開始すると、その先鋒を務めた。徳川慶喜隠居後の徳川宗家次期当主候補に擬せられたこともある。しかしもともと病弱だったため、慶勝の影に隠れ、主体性は薄かった。

明治8年(1875年)、18歳で夭折した。法号は隆徳院殿。号は松堂、靖公。義宜の死後は父・慶勝が当主として復帰している。

脚注 編集

  1. ^ 徳川義宜とは-コトバンク(『日本人名大辞典』)より。

関連項目 編集