習 珍(しゅう ちん、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代蜀漢武将荊州襄陽郡の人。

生涯 編集

劉備の配下で零陵北部都尉・裨将軍を務めていた。建安24年12月(220年年始)[1]、劉備配下の関羽樊城の戦いの末に孫権に殺害されると、荊州の諸県はこれに呼応し、孫権に与した。習珍だけは降伏を拒もうとしたが、弟の習宏から「守りは堅固にあらず、兵士は精強にあらず、成功は難しいでしょう。しばらくは膝を屈し、然る後に大功を立てて漢室に報いるべきです」と諫められると、これに従った。

その後、武陵郡の部従事の樊冑と手を結ぶ。樊冑は武陵で挙兵したが、潘濬の攻撃を受けて敗死した[2]

一方、習珍は7県を占拠して挙兵し、邵陵太守[3]を自称し、異民族の土地に駐屯して蜀漢に与した。潘濬がまた派遣されると至るところでこれを下し、習珍はただ数百人を連れて山に逃れた。潘濬は自ら山麓まで赴いて降伏を呼びかけたが、習珍は「我は漢の鬼となろうともの臣にはならぬ。もう来るでないぞ!」と答え、これを拒絶した。

改めて潘濬は攻撃をかけ、習珍は固守すること1ヶ月余りに及んだが、兵糧も矢も尽き果てた。そこで部下たちに「漢の厚恩を受けたからには死をもって報いないわけにはいかない。諸君は何するものぞ?(しかし諸君はそこまでする必要はあるだろうか?)」と告げると、剣を取って自害した。劉備は習珍の敗死を知ると喪を発し、習珍に邵陵太守の官を追贈した[4]

自身は呉の攻撃を受けて敗死したが、弟の習宏、子の習温は呉に仕えた。

正史三国志』、及び小説『三国志演義』には登場しない。

出典 編集

脚注 編集

  1. ^ 陳寿撰、裴松之注『三国志』呉書 呉主伝
  2. ^ 『三国志』呉書 潘濬伝注『江表伝』も参照。そこでは樊冑の名を樊伷とする。
  3. ^ 実際にこの郡が設置されたのは後年となる呉の宝鼎元年(266年)。『三国志』呉書 孫皓伝より。
  4. ^ 習珍の没年は不明だが、劉備が死去した章武3年(223年)4月以前となる。