王 兆(おう ちょう、生没年不詳)は、モンゴル帝国に仕えた漢人世侯の一人。

元史』には立伝されていないが、『山右石刻叢編』巻30に所収される「王氏世徳碑」にその事蹟が記されており、『新元史』には王氏世徳碑を元にした列伝が立てられている。

概要 編集

王兆は王明・王兆・王昇・王斌という4兄弟の次男であったが、長兄の王明が早世したことにより家主となった人物であった。王兆は若くして軍吏となったものの、軍務を嫌って軍を離れ、各地の豪俠たちと交流を持った。その過程で難題を解決したり、強者に立ち向かったため、人々の信望を得たという[1]

1217年興定元年/丁丑)、モンゴル軍による雁門の包囲が始まると、モンゴル兵の一部が県境にまで及ぶようになったため、金朝の官吏は城を放棄して逃れてしまった[1]。そこで城内の人々は王兆と劉会を推戴して首領とし、当初は南方に逃れようとした[1]。しかし、王兆は闇雲に逃れるよりもモンゴルに投降すべきであると論じ、劉会ら十数人とともにモンゴル軍の陣営を訪れ、牛酒を持参し「攻取の策」を献じることで投降を認められた[1]。投降を受け容れたモンゴル軍の指揮官は王兆の言動と風貌を偉とし、左監軍の地位を授けた[1][2]

王兆の投降によって捕虜となった人々は帰還することができ、更にその後監国公主アラカイ・ベキの教えを受け、昭武将軍・堅州左副元帥の地位に移った。この頃、華北一帯ではモンゴル軍の侵攻によって向背が進んでいたが、王兆は離散した人々を集め、耕作を勧めたため、在職20年あまりの内にその威名は広がった。1241年辛丑)、官制の改革があったが王兆は既に高齢であることを理由に引退し、80歳にして死去した[3]

一族 編集

王兆の三弟である王昇はもっぱら家務に携わり、子弟の教育などを行っていた。後、三男であることから「三翁」と呼ばれるようになり、王昇自身もこの呼び名を受け容れていたという[4]

王兆の末弟である王斌は王昇と対称的に騎射を得意とする軍人で、主に軍務おいて王兆の腹心として活躍した。五台山において盗賊が起こった時には、王斌が賊の所在地を偵知し首魁を捕らえるという功績を残している[5]

王兆の子世代は「⺩」を通字とし、王兆には王喜・王玘・王瓘・王瓊という4子が、王昇には王瑛・王瑞・王瑜・王珎という4子が、王斌には王璠という子がそれぞれいた。この中でも、王玘は権堅州軍民次官という地位に就いたことが知られている[6]

王兆の孫世代は「仲」を通字とし、王玘には王仲宝・王仲文・王仲□・王仲良・王仲譲、王瓘には王仲実・王伸亨・王仲元、王瓊には王伸通・王仲敏、王瑛には王仲威・王仲安・王仲可、王瑞には王仲秀・王仲慶・王仲山、王瑜には仲簡、王珎には王仲福・王仲禄・王伸栄・王仲昌、王璠には王仲祥という子が、それぞれいた[7]

脚注 編集

  1. ^ a b c d e 池内1980,92頁
  2. ^ 『山右石刻叢編』巻30王氏世徳碑,「……四子。曰明、曰兆、曰昇、日賦。明早夭。兆、少補軍吏、非所好、葉去。従旁郡諸豪俠游、排難解紛、不避強禦、衆服其義。里人争訟、往往就質。曲直県長吏而下,□相結納。興定丁丑、大兵囲雁門、游騎及県境。金人棄城奔潰。城中遺民共推公、与県人劉会同領県事、謀走南山柵険自保。公度不可行,乃与会等十数人、持牛酒。□日、徑至主帥磨下通姓名。欺□、且献攻取之策。主帥偉公言貌、以便宜擢授左監軍、会軍事判官」
  3. ^ 『山右石刻叢編』巻30王氏世徳碑,「尽還先□俘繁時生口一県、頼以全濟。継受監国公主教、遷昭武将軍・堅州左副元帥。時兵荒之餘、公率先僚属□游獵、勤政務、招集散亡、勧課耕稼。在職二紀、威惠布聞。歲辛亥、朝議吏定官制、州郡武職多見易置、公春秋已高、即謝事家居。享寿八十而終」
  4. ^ 『山右石刻叢編』巻30王氏世徳碑,「昇、性楽易、善治生、在兄弟間、独能□克。辶待親故曲尽恩義、出入閭里、無少長皆以三翁呼之、莫敢斥其姓字。共経紀家務、訓飭子弟、一一有矩□□、今耆旧多称道共為人」
  5. ^ 『山右石刻叢編』巻30王氏世徳碑,「斌、有手□、又善騎射、昭武恃為爪牙。金将武僊餘党匿五台山中為盜、近山居民多被劫掠。公偵知所在、連捕其魁、自是群輩遠遁、闔境清謐、故時人有□□者」
  6. ^ 『山右石刻叢編』巻30王氏世徳碑,「昭武。四子。曰喜、曰玘、曰瓘、日瓊。玘嘗権堅州軍民次官、瓘早逝。妻田氏以貞節蓍、孤仲実以孝行聞州上其名、聯被旌表。三翁、四子。曰瑛、曰瑞、曰瑜,曰珎。珎、太原□捕□□□□□。斌、一子。曰璠、好賢楽善。□□君子」
  7. ^ 『山右石刻叢編』巻30王氏世徳碑,「玘生仲宝・仲文・仲□・仲良・仲譲。瓘生仲実・仲亨・仲元。仲元妻韓、夫亡守義、郷党称焉。瓊生伸通・仲敏。瑛生仲威・仲安・仲可。瑞生仲秀・仲慶・仲山。瑜生仲簡。珎生仲福・仲禄・伸栄・仲昌。璠生仲祥」

参考文献 編集

  • 池内功「モンゴルの金国経略と漢人世候の成立-1-」『創立三十周年記念論文集』四国学院大学編、1980年
  • 新元史』巻145列伝42王兆伝
  • 蒙兀児史記』巻60列伝42王兆伝