田村太郎
田村 太郎(たむら たろう、旧姓・牧野、1904年(明治37年)11月[1] - 1984年(昭和59年)1月2日[2][3][4])は、日本の実業家。尼崎造船社長[1]・興亜海上火災運送常監[1]・大阪曹達監査[1]を務めた。
人物
編集大阪府出身[1]。牧野太吉の二男に生まれ、田村家の死跡を相続した[1][5]。1930年、京都帝国大学法科を卒業した[1][5][6]。趣味は柔道、読書[1]。宗教は真宗[1][5]。住所は兵庫県尼崎市難波通[1]、大阪市北区中之島[5]。
家族・親族
編集- 田村家
- 親戚
- 妻の父・尼崎伊三郎(尼崎造船会長)
脚注
編集- ^ a b c d e f g h i j k l m 『人事興信録 第15版 下』タ22頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年12月1日閲覧。
- ^ 「田村 太郎氏(たむら・たろう=元大阪曹達社長)」『朝日新聞』1984年1月3日、23面。
- ^ 「田村 太郎氏(たむら・たろう=元大阪曹達社長)」『読売新聞』1984年1月3日、23面。
- ^ 「田村 太郎氏(たむら・たろう=元大阪曹達社長、現常任相談役)」『毎日新聞』1984年1月4日、23面。
- ^ a b c d 『人事興信録 第14版 下』タ75頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年12月1日閲覧。
- ^ 『京都帝国大学一覧 昭和5年』卒業生姓名 法学士440頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年1月27日閲覧。
- ^ a b 『人事興信録 第8版』ア109頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年12月1日閲覧。
参考文献
編集- 人事興信所編『人事興信録 第8版』人事興信所、1928年。
- 京都帝国大学編『京都帝国大学一覧 昭和5年』京都帝国大学、1930年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年。
- 人事興信所編『人事興信録 第15版 下』人事興信所、1948年。