白馬の禍(はくばのか)は、末に朱全忠が朝廷の官僚を殺害した事件である。別名、白馬駅の禍ともいう。

経過 編集

天祐2年(905年)7月5日、朱全忠は、腹心の李振の煽動によって、滑州の白馬駅(現在の河南省安陽市滑県の境)において、左僕射中国語版裴枢・新任の静海軍節度使中国語版独孤損中国語版右僕射中国語版崔遠中国語版吏部尚書陸扆中国語版工部尚書王溥中国語版・守太保趙崇凝中国語版兵部侍郎王賛中国語版らの「衣冠清流」と呼ばれる官僚を一度に殺害し、死体を黄河に遺棄した。歴史上、これを「白馬の禍」という。

李振は、咸通乾符年間に、何度も科挙に落第しており、門閥中国語版を激しく憎んでいた[1]。後に、李振は、朱全忠に対し、「このような輩は清流だと自称していたが、黄河に身を投げたので永遠に濁流となってしまった」と述べた。朱全忠は、これを聞いて笑ったという[2]

結果 編集

朱全忠は、麻を割くがごとく人を殺し、部下・捕虜・士人に対しては、等しく殺人的な性格で接しており、その残忍さは歴史上前例を見ない。後に、後梁の謀士の水準は、李振や敬翔中国語版などの失意のうちにあった文人の水準にとどまっており、そのため、朱全忠の生前においては、李存勗をはじめとするその他の軍閥を徹底的に排除することができなかったとされる。

北宋欧陽脩は、『新五代史』「梁家人伝」において、「梁の悪は極まった。盗賊から身を起こして唐を滅ぼすまで、その遺毒は天下に広まっている。天下の豪傑は四方八方から立ち上がっており、胸に刀を刺そうとしない者があろうか(いや、誰でもそのようなことをする)[3]」と批評している。

白馬の禍の後、唐の朝廷の勢力の根本が破壊された。しかし、この時に多くの者を殺したがため、恐れた士人が官位に就こうとしなかったことから、朱全忠は、これを悔やみ、仇敵である宰相の柳璨中国語版に白馬の禍の罪を着せた。年末に、朱全忠は、柳璨と唐の昭宗の妻の何太后中国語版が唐の帝室を復興させようとしているとの誣告を聞いて、柳璨と何太后を殺害した。

天祐4年(907年)、朱全忠は、唐の哀帝を廃して自ら皇帝に即位し、国号を「梁」と改めた。ここに、歴史上「後梁」と称される王朝が始まり、唐は正式に滅亡するに至った。

脚注 編集

  1. ^ 姜維公・高文輝『白馬之禍考析』指出:遇害唐臣多是与科挙有瓜葛的文人,不支持朱温簒唐容或有之,但絶対対朱温簒唐構不成威脅。白馬之禍表面上是為朱温簒国做準備而採取的一次清洗行動,但在実際上,此行動已超出了清洗的範囲,帯有明顕的報復色彩,在白馬之禍中,有不少遇難的唐臣実際成了科挙弊端的犧牲品。
  2. ^ 新唐書』巻140列伝第六十五崔苗二裴呂伝「裴枢伝」:(裴枢)俄貶登州刺史,又貶瀧州司戸参軍。至滑州,(朱)全忠遣人殺之白馬驛,投屍于河,年六十五。初,全忠佐吏李振曰:「此等自謂清流,宜投諸河,永為濁流。」全忠笑而許之。
  3. ^ 新五代史』巻13「梁家人伝第一」:嗚呼,梁之悪極矣!自其起盗賊,至於亡唐,其遺毒流于天下。天下豪傑,四面並起,孰不欲戡刃於胸,然卒不能少挫其鋒以得志。梁之無敵於天下,可謂虎狼之強矣。及其敗也,因於一二女子之娯,至於洞胸流腸,刲若羊豕,禍生父子之間,乃知女色之能敗人矣。自古女禍,大者亡天下,其次亡家,其次亡身,身苟免矣,猶及其子孫,雖遲速不同,未有無禍者也。然原其本末,未始不起於忽微。易坤之初六曰:「履霜,堅冰至。」家人之初九曰:「閑有家,悔亡。」其言至矣,可不戒哉!梁之家事,詩所謂「不可道」者。至於唐・晋以後,親疎嫡庶亂矣!作家人傳。