百済王教俊
平安時代初期の貴族。従五位上・出羽守。子に百済王慶世
百済王 教俊(くだらのこにきし きょうしゅん)は、平安時代初期の貴族。陸奥鎮守将軍・百済王俊哲の子。官位は従五位上・出羽守。
時代 | 平安時代初期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
官位 | 従五位上・出羽守 |
主君 | 桓武天皇→平城天皇→嵯峨天皇 |
氏族 | 百済王氏 |
父母 | 父:百済王俊哲 |
兄弟 | 聡哲、教徳、教俊、教法、貴命 |
子 | 慶仲、慶世、豊俊、慶命、永慶 |
経歴編集
従五位下に叙爵後、延暦18年(799年)下野介に任ぜられる。その後、左衛士佐として京官に遷り、延暦25年(806年)美濃守を兼ねている。同年の桓武天皇の崩御に伴う平城天皇への代替わりに際しては、桓武天皇の葬儀における作路司や[1]、斎内親王を迎えるための伊勢神宮への使者などを務めた[2]。
平城朝では鎮守将軍を務めたほか、大同3年(808年)6月には陸奥介を兼ねるなど蝦夷征討に従事した。しかし、教俊は鎮守将軍の官職にありながら鎮守府(胆沢城に所在)に詰めずに、遠く離れた陸奥国府(多賀城に所在)に常在していたことから、非常事態発生時に適切に対応できないとして、改善すべき旨の勅令を受けている[3]。
その後も、大同4年(809年)下野守、弘仁3年(812年)出羽守と、東国の地方官を歴任した。またこの間、時期は不明ながら従五位上に昇叙されている。
官歴編集
『六国史』による。