百済王教徳
百済王 教徳(くだらのこにきし きょうとく、旧字体:百濟王 敎德)は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族。陸奥鎮守将軍・百済王俊哲の子。官位は従四位上・刑部卿。
時代 | 奈良時代 - 平安時代初期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 弘仁13年10月20日(822年12月10日) |
官位 | 従四位上・刑部卿 |
主君 | 桓武天皇→平城天皇→嵯峨天皇→淳和天皇 |
氏族 | 百済王氏 |
父母 | 父:百済王俊哲 |
兄弟 | 貴命 |
子 | 鏡仁、貞香、真徳 |
経歴
編集従五位下に叙爵後、延暦7年(788年)右兵庫頭に任ぜられる。翌延暦8年(789年)讃岐介として地方官に転じると、延暦18年(799年)上総守と桓武朝半ば以降に地方官を歴任した。
その後、正五位下まで昇進したのち、平城朝の大同3年(808年)宮内大輔に任官する。嵯峨朝では治部大輔・刑部卿と京官を歴任する一方、弘仁3年(812年)従四位下、弘仁7年(816年)従四位上と昇進した。
弘仁13年(822年)卒去。最終官位は刑部卿従四位上。
官歴
編集『六国史』による。