百済王聡哲
百済王 聡哲(くだらのこにきし そうてつ)は、平安時代初期の貴族。官位は正五位下・刑部大輔。
時代 | 平安時代初期 |
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生誕 | 神護景雲3年(769年)? |
死没 | 天長4年7月7日(827年8月2日)? |
官位 | 正五位下・刑部大輔 |
主君 | 桓武天皇→平城天皇 |
氏族 | 百済王氏 |
経歴
編集延暦16年(797年)従五位下・出羽守に叙任される。従五位上に叙せられたのち、桓武朝末の延暦24年(805年)主計頭に任ぜられる。
延暦25年(806年)平城天皇の即位後に越後守として地方官に転じる。大同3年(808年)正五位下・刑部大輔に叙任されて京官に復すが、以降の動静は不明。一説では淳和朝の天長4年(827年)7月7日に享年59で卒去したともされる[1]。
官歴
編集『日本後紀』による。
脚注
編集- ^ 栗原信充考訂『百済王三松氏系図』