相良 頼親(さがら よりちか)は、鎌倉時代武将鎌倉幕府御家人相良氏の第2代当主[2]

 
相良頼親
時代 鎌倉時代
生誕 建久8年(1197年
死没 文永元年5月22日1264年6月17日
改名 頼宗→頼親、観仙禅師
別名 四郎、初名:頼宗、兵衛尉、観仙大徳
墓所 正持寺(人吉市上原田町馬草野)[1]
願成寺(人吉市願成寺町956)
官位 従五位下左兵衛尉
幕府 鎌倉幕府
主君 源実朝
氏族 相良氏
父母 相良長頼
兄弟 頼親頼氏頼俊頼村、為頼、頼員頼貞
伊東氏
相良頼明(永留氏祖)
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相良長頼の長男。通称は四郎。観仙禅師とも言う。

略歴

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鎌倉にて6歳で元服し「四郎兵衛尉頼親」と名乗った。

幼くして、将軍源実朝鶴岡八幡若宮への参拝に同行して、前駆[3]を任される栄誉を受けた。

承久元年(1219年)、鎌倉からの帰還の途上で、泉州堺の津で源実朝が暗殺されたことを知り、法大寺[4]にて剃髪し「観仙大徳」と名を改め、更に朝廷に請い、後深草天皇より禅師号を賜った。

以後、しばしば東国に赴いた父長頼の留守居として、人吉[5]に残り、内治を担当した。

宝治元年(1247年)、井口八幡神社(井ノ口八幡宮)を創建した。

建長6年(1254年)、長頼の死により家督を継いたが、すでに齢56歳であったことと、北条氏の世に移り変わっていたことを快く思っておらず、その翌年(1254年)には弟の頼俊に家督を譲って、自らは照角山(球磨村神瀬)に観仙庵を設けて隠棲した。

文永元年(1264年)、68歳で逝去した。

息子の相良頼明は永留氏(永富氏)を称し、後にこの家系から宗家を継ぐ相良長続が出たと説明されている。頼親・頼明父子については鎌倉末期から南北朝期に作られた相良氏の系図にも登場することから実在した可能性が高いが、そこから長続に至るまでの永留氏の動向は不詳であり、長続が本当にこの家系の出身なのかは不明である[6]

脚注

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  1. ^ 熊本県教育会球磨郡教育支会 1941, p. 766.
  2. ^ 相良長頼を相良氏の2代とする向きもあるようであるが、相良氏の史料『南藤蔓綿録』等では頼親を2代とし、『人吉市史』もそれを採用しているためそれに準拠する。
  3. ^ 行列の前方を進んで先導する役目。
  4. ^ すでに廃寺。
  5. ^ 一説には「人吉」という地名が使われ始めたのが、頼親公の時代であると言う。
  6. ^ 小川弘和「相良・工藤系図とその周辺」稲葉継陽・小川弘和編『中世相良氏の展開と地域社会』戎光祥出版、2020年、P30-33.

参考文献

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