福原親俊
長州藩永代家老・宇部領主福原家23代。福原熙賢の長男
福原 親俊(ふくばら ちかとし、天保4年7月2日(1833年8月16日) - 安政5年(1858年)10月[1])は、長州藩永代家老・宇部領主福原家23代。
生涯
編集天保4年(1833年)、長州藩家老福原房純の嫡子、福原熙賢の長男として生まれる。天保7年(1836年)正月、祖父房純が没し、その1週間後に父の熙賢も没したため、4歳で家督を相続することとなる。藩主毛利慶親の偏諱を受け親俊と名乗る。天保年間、郷校晩成舎を設立する。弘化2年(1845年)儒学者佐々木向陽を招請し、晩成舎を移転して菁莪堂と改称。安政元年(1854年)城西海辺警衛惣奉行となり異国船の警戒にあたる。安政5年(1858年)長州藩が幕府より、西摂沿岸の海防警備を命ぜられると、兵庫警衛惣奉行となる。兵庫出張中に病に倒れ、同年死去した。享年26。家督は房純の甥かつ熙賢正室の弟である福原元僴が相続した。
脚注
編集- ^ 『宇部市史 通史篇』宇部市史編纂委員会、1966年、p.284。
参考文献
編集- 「宇部市史」