毛利就馴
江戸時代中期の大名。周防徳山藩7代藩主。毛利広豊の十男。従五位下大和守、石見守。子に毛利馴仁
毛利 就馴(もうり なりよし)は、江戸時代中期の大名。周防国徳山藩7代藩主。第5代藩主・毛利広豊の十男。幼名は専之助。名を就馴(初め「なりよし」、後に「たかよし」[1])、就友(たかとも)と変える。
毛利就馴像 | |
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
生誕 | 寛延3年11月6日(1750年12月4日) |
死没 | 文政11年3月20日(1828年5月3日) |
改名 | 専之助(幼名)、就馴、就友、政翁/泰翁(号) |
別名 | 左衛門佐(通称) |
戒名 | 隆興院殿徳運全功大居士 |
墓所 | 山口県周南市舞車の聚福山大成寺の徳山毛利家墓所 |
官位 | 従五位下大和守、石見守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治、家斉 |
藩 | 周防徳山藩主 |
氏族 | 毛利氏 |
父母 |
毛利広豊、清光院 毛利広寛 |
兄弟 |
広矩、広寛、松野助紑、小笠原正良、 就盈、森豊嘉、吉川経倫、就馴、 土方勝幼、大島義順、粟屋清平、 笹川芳和、美代子、要子、遊、好子、 鉄子、武子、栄子ら23男23女 |
妻 | 関政富娘浄願院 |
子 |
福原房純、広鎮、馴仁、板倉勝意継室、 豊子、小笠原正弇室 |
生涯
編集寛延3年(1750年)11月6日、徳山藩の第5代藩主・毛利広豊の十男として、江戸の今井谷邸で生まれる。
宝暦14年(1764年)2月22日、第6代藩主の兄・広寛が死去。他の兄は早世または既に他家を相続していたので、同年4月21日に広寛の養嗣子として家督を継ぎ、「就馴」と名乗る。
就馴は生まれつき英邁闊達で、よく下情に通じて人民を愛し、家老・奈古屋蔵人を重用して治績を挙げる。また、藩士に命じて各家に伝来の古文書や系譜を呈出させ、藩祖・就隆及び第3代藩主・元次の詩文を編集して散逸を防ぐなど、大いに意を文事に用い、天明5年(1785年)には藩校の鳴鳳館を創立して文教興隆の基礎を築く。
寛政8年(1796年)9月24日、次男の広鎮に家督を譲って隠居。寛政11年(1799年)3月26日、病と称して帰邑の暇を請い、同年5月に下松の仮寓に入る。文化元年2月(1804年)、富田に別邸を設ける。
文化4年(1807年)9月23日、名を「就友」と改め、文化13年(1816年)12月23日に総髪して「政翁」、また「泰翁」と号し、風月を友として悠々自適の日を送る。