稚足姫皇女

稚足姫皇女(わかたらしひめ の ひめみこ、生年不詳 - 雄略天皇3年(推定481年))は、『記紀』に伝えられる古墳時代の皇族(王族)。雄略天皇葛城円(かずらき の つぶら)大臣の娘、葛城韓媛との間の子。同母兄に白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこ の すめらみこと、(清寧天皇)。別名は栲幡姫皇女(たくはたひめ の ひめみこ)。『古事記』では「若帯比売命」。

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経歴編集

『日本書紀』巻第十四によると、伊勢神宮の斎宮となったが、雄略天皇3年(推定459年)、阿閉臣国見(あえ の くにみ)が流した譖詐(しんさ)の言葉により、死に追いやられた。それによると、

「武彦、皇女(ひめみこ)をけがしまつりて任身(はら)ましめたり」

武彦とは、廬城部連武彦(いおきべ の むらじ たけひこ)のことで、湯人(ゆえ)と言って、皇族の身の廻りの世話をする人であった。天皇は使者を派遣して、娘を取り調べたが、

「妾(やっこ)は識(し)らず」

という返事であった。そして、皇女は神鏡(あやしきかがみ、(『釈日本紀』は八咫鏡とする)を持ち出して、

五十鈴川(いすずのかは)の上(ほとり)に詣(い)でまして、人の行(あり)かぬところを伺ひて、鏡を埋(うづ)みて経(わな)き死ぬ。

天皇は皇女が不在であるのが怪しまれり、あちこち捜しさせた。皇女が鏡を埋めたあたりから蛇のように虹が立ち上っており、皇女の遺体も無事発見された。皇女の腹を割いてみると、水が入っていて、石が中にあった、という。

これにより、皇女と武彦の無罪は証明されたのだが、既に我が手で息子を殺してしまった廬城部枳莒喩(いおきべのきこゆ)は国見のことを恨み、殺そうとしたという[1]

脚注編集

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  1. ^ 『日本書紀』雄略天皇3年4月条

参考文献編集

関連項目編集