稲田 秀太郎(いなだ ひでたろう、安政元年9月9日1854年10月30日〉 - 昭和15年8月31日1940年8月31日〉)は、日本政治家実業家地主

稲田 秀太郎
いなだ ひでたろう
生年月日 1854年10月30日
出生地 伯耆国米子(現、鳥取県米子市紺屋町
没年月日 1940年8月31日
死没地 鳥取県米子市

日本の旗 米子町会議員
在任期間 1898年 - ?
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伯耆国米子(現、鳥取県米子市紺屋町)出身。元米子町会議員。醤油醸造合名会社稲田本店代表社員[1]。稲田家の六代目。鳥取県平民[2]米子銀行監査役[3]。元衆議院議員、稲田家の七代目稲田藤治郎の兄。

家族・親族

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稲田家

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鳥取県米子市紺屋町・米子市久米町東京都

参考文献

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  • 『明治人名辞典Ⅱ 上巻』(底本・『日本現今人名辞典(明治三三年)』)いノ六十三

史料

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大正5年(1916年)の地主層

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当時、商工業の有力者は同時に地主でもあった[4]。この年度における米子町の地価1000円以上の地主名を挙げると次の通りである[5]10000円〜15000円の部稲田秀太郎の名前がみえる。

国税営業税百円以上納入者及び納入額(綱島幸次郎編『山陰実業名鑑』(大正元年(1912年)12月、帝国興信所米子支所発行)

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名島嘉吉郎博労町)、四百三十四円[7]
木村吉兵衛東倉吉町)、二百九十五円[7]
稲田秀太郎紺屋町)、二百八十三円[7]
田村源太郎糀町)、二百五十八円[7]
後藤快五郎内町)、百八十四円[7]
益尾岩次郎(道笑町)、百七十八円[7]
野坂茂三郎法勝寺町)、百七十円[7]
松浦常太郎(紺屋町)、百六十八円[7]
益尾吉太郎道笑町)、百六十一円[7]
高橋台三郎(法勝寺町)、百五十九円[7]
藤谷善太郎(茶町)、百五十五円[7]
近藤ナオ(糀町)、百五十円[7]
平野猪三郎(道笑町)、百三十一円[7]
砂田竹太郎紺屋町)、百三十円[7]
茅野治良八灘町)、百二十七円[7]
三好豊吉(日野町)、百八円[7]
久留藤三郎(灘町)、百六円[7]
野波令蔵法勝寺町)、百四円[7]
島田松三郎(立町)、百円[7]
小坂市太郎(糀町)、百円[7]

脚注

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  1. ^ 蔵元 稲田本店【歴史】
  2. ^ 『人事興信録. 6版』(大正10年)い一二一
  3. ^ 『明治人名辞典Ⅱ 上巻』(底本・『日本現今人名辞典(明治三三年)』)いノ六十三
  4. ^ 『米子商業史』165頁
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『米子商業史』166頁
  6. ^ 綿辺か?
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 『米子商業史』(1990年、編纂・著作 米子商工会議所米子商業史編纂特別委員会、140頁)