穂積 以貫(ほづみ いかん[1]/これつら[1]元禄5年(1692年) - 明和6年9月22日1769年10月21日[1])は、江戸時代の儒学者。播州姫路に、和算家穂積与信の子として生まれる。名は為仍[1]、通称は伊助[1]、号は能戒斎[1]

書写山で仏教を学んだ後、1714年(正徳3年)伊藤東涯に師事し[1]古学派堀川学派に属する。はじめ柳原家に仕え[1]、1717年(享保2年)以降は町儒者として生活した[1]竹本座との関係が深く、近松門左衛門の『傾城酒呑童子』執筆に同席したという逸話が残り[1]、自著『浄瑠璃文句評注難波土産』に近松の「虚実皮膜論」が記してあることでも知られる[1]。次男は近松に私淑して近松半二を名乗る浄瑠璃作者となった。

著書に『論語国字解』などがある。

出典 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j k 日本古典文学大辞典編集委員会『日本古典文学大辞典第5巻』岩波書店、1984年10月、466頁。