穆公(ぼくこう、生没年不詳)は、の君主。姫姓召氏。は虎。幽伯の子。母は召姜召公奭の16世の孫[1]

穆公
王朝
在位期間 不明
都城
姓・諱 姫虎
諡号 穆公
幽伯

生涯

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当時、厲王は暴虐で、国人暴動中国語版(国人の乱)を引き起こした。穆公は太子静を匿い、死んだことにした。太子静はその後脱出した[2]。厲王の死後、太子静(宣王)が即位し、穆公と周の定公が執政を補佐した。これを共和と言う[3]

穆公は7,000人の軍を率い、40,000人の淮夷の軍を破った。

脚注

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  1. ^ 『詩経正義』江漢:「『世本』,穆公是康公之十六世孫」
  2. ^ 司馬遷. 『史記』巻四 周本紀. 中国哲学書電子化計画 (ctext.org). http://ctext.org/shiji/zhou-ben-ji/zhs. "厲王太子静匿召公之家,国人聞之,乃囲之。召公曰:「昔吾驟諫王,王不従,以及此難也。今殺王太子,王其以我為讎而懟怒乎?夫事君者,険而不讎懟,怨而不怒,況事王乎!」乃以其子代王太子,太子竟得脱。" 
  3. ^ 司馬遷. 『史記』巻四 周本紀. 中国哲学書電子化計画 (ctext.org). http://ctext.org/shiji/zhou-ben-ji/zhs. "召公・周公二相行政,號曰「共和」。" 

外部リンク

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先代
幽伯
の君主
次代
不明