立花寛正
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立花 寛正(たちばな ともまさ、1859年6月13日(安政6年5月13日[1])- 1939年(昭和14年)2月19日[1])は、日本の実業家。
立花寛正 たちばな ともまさ | |
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大正15年4月1日 寛正は前列左 | |
生年月日 | 1859年6月13日 |
没年月日 | 1939年2月19日(79歳没) |
配偶者 | 立花千代子 |
親族 | 兄・立花寛治(貴族院議員) |
城内村会議員 | |
経歴
編集福岡日日新聞を創刊して終始一貫その経営に参与した[2]。福岡日日新聞社の資本主代表者[3]でもある。
第九十六国立銀行(柳川銀行)取締役、福岡県会議員、柳川興産会社社長、城内村会議員[4]、福岡農工銀行取締役[5]などを務める。
筑後柳河藩の第十三代当主である立花鑑寛(あきとも)の三男で、立花家一門の立花大学家の第七代当主。二男寛治(ともはる)が、立花家一門の立花大学家の養子となっていたが、1873年(明治6年)1月に長男鑑良が病死したため、実家に復籍した。このため、十時家に養子に行っていた三男である寛正も実家に復籍して、立花中務の養子となり[1]、立花通厚の興した大学家家督を相続。
慶應義塾福沢諭吉門下生。寛正は福沢諭吉が1890年(明治23年)、慶應義塾に大学部を設立した時に在学していた。諭吉が訪米した際、寛正も誘いを受け、本人は渡米を希望したが、断念。
親族
編集- 妻 立花千代子 - 立花親徳の次女。
墓所
編集脚注
編集- ^ a b c 霞会館華族家系大成編輯委員会 編『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年、46頁。
- ^ 芳賀登 編『日本人物情報大系39(企業家編 9)』皓星社、2000年3月。ISBN 4774402753。OCLC 975364187 。
- ^ 西日本新聞百年史. 西日本新聞社. (昭和53年3月31日)
- ^ 秀村選三 (昭和55年9月15日). 西南地域史研究第4 編輯. 西南地域史研究会(九州大学経済学部日本経済史研究室内)
- ^ 新藤, 東洋男『自由民権運動と九州地方 : 九州改進党の史的研究』古雅書店、1982年、[要ページ番号]頁。OCLC 835386214 。