第五長久丸(だいごちょうきゅうまる)は、かつて田中鉱山株式会社が保有していた日本初の純国産鋼製貨物船[4]である。

第五長久丸
基本情報
船種 貨物船
船籍 日本の旗 日本
所有者 田中長兵衛
運用者 田中鉱山
建造所 浦賀船渠
母港 釜石港/岩手県
姉妹船 天王丸、浦賀丸、萬字丸、第七雲海丸、海王丸、明大丸、登川丸[1][2]
航行区域 遠洋
信号符字 LTCS
経歴
発注 1913年4月
起工 1913年12月1日
進水 1914年7月4日
最後 1923年2月25日 座礁沈没
要目
総トン数 2,138トン
載貨重量 3,360トン
排水量 4,795トン
長さ 81.69m(268フィート)
12.42m(40フィート9インチ)
深さ 7.16m(23フィート6インチ)
喫水 5.94m(19フィート6インチ)
デッキ数 1
主機関 三連成表面冷汽機1基
出力 1,150馬力(実馬力)
速力 9.5ノット
最大速力 11.0ノット[3]
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建造

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台湾から製鉄所のある釜石鉄鉱石や石炭を運ぶ貨物船[5]として1913年(大正2年)4月に東京の田中長兵衛が発注。2千トン級のこの汽船は国内初の純国産鋼製貨物船であり、浦賀船渠にとってもこの規模の船を造るのは創業以来初めての挑戦であった。受注後すぐに設計に取り掛かり、同年10月に逓信大臣より造船の認可が下りたため建材を発注。同12月より製造に着手した。翌1914年(大正3年)7月4日[6]に船主・田中長兵衛の「長」と横山久太郎の「久」を取って第五長久丸[7]と命名し、進水式を行う[注 1]。式当日は船主の嫡男・田中長一郎が命名書を読み上げ、横山の養女・花子が金色の鎚を振るって支綱を切断した[9]。この進水式には浦賀船渠の社長・町田豊千代や主任技師の浅川彰三[注 2]らの他、横須賀鎮守府司令長官の伊地知季珍以下海軍高官、横須賀市長の田邊男外鐵第一銀行総支配人の佐々木勇之助及び各紙新聞記者など約500名が来賓。一般の観覧者も数多く集まり盛大なものとなった[9]。船は同年10月に竣工。

第五長久丸は揚貨装置の数や配置に新たな試みがあり、そのため通常の船に比べ約2倍の荷役速度を誇った。これが船主間で話題となり、浦賀船渠には同型船の注文が複数舞い込んで活況を呈したほか、他の造船所でも形式を真似るところが現れた[11]

なお船主の田中長兵衛は長久丸、第二長久丸、第三長久丸、その他複数の貨物船を所有していたが、第三までの長久丸は外国製の中古船を買い入れたものであり、国内生産の船ではない。

運用

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竣工翌年の1915年(大正4年)6月18日には、建設が正式決定となった明治神宮の建材として台湾阿里山で産出された木材を満載し横浜に入港。鳥居に使用予定の長さ60間(約109m)直径6尺(約1.82m)の巨大な檜に関しては基隆まで搬出されたものの、この未曾有の巨木を積み得る船が無く困っており、おそらく海に浮かせてロープで引くことになるだろうと第五長久丸船長の谷が語っている[12]

沈没事故

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1923年(大正12年)2月25日、第五長久丸は岩手県の首崎付近の浅瀬で座礁した。その前日の24日、大連より豆粕を満載し石濱港にて荷揚げ。同日15時頃に燃料である石炭の補給のため釜石へ向け出港する。ところが同20時頃より霧が発生。次第に濃霧[13]となり速力を落とし厳重警戒しつつ進むも、翌25日深夜0時50分頃に左舷船首が激しく接触。船尾は岩に挟まれた。浸水が始まり、午前2時にはそれが機関室にも達し機関停止を余儀なくされる。

船長・谷英吉[14]の指示の下、全船員が甲板に集合して順次ワイヤーロープを使い岩壁に移る中、船長自身は船と命運を共にする決意を明かす。船員たちから懇願されても動こうとしない船長に対し、一等運転士の坂口[注 3]は船長が残るなら自分も残ると詰め寄り、ついに脱出を承諾させた。ところが船長にロープの端を握らせて坂口が岩壁に渡った次の瞬間、大波が船長の身体を連れ去ってしまう。皆が落胆したその時、次の波が船長を岩壁の下に打ち寄せる形となり、それを見た船員たちは急ぎ船長を引き上げた。この事故の際、地元崎浜の消防団や青年団は山中を2時間かけて現場へたどり着き、陸から船へロープを張って献身的に救助に当たった。結果、船は沈没したものの船長以下船員の殆どは無事に釜石港に帰還している[16][注 4]日本海員掖済会は、この件における犠牲的精神の発露に対し表彰を行い、金品を授与した。

脚注

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注釈

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  1. ^ 特筆すべき点として造船材料の9割が国産であり、東京湾内で進水式をした船としては過去最大のものであった[8]
  2. ^ 後に東京帝国大学工学部教授を務める[10]
  3. ^ 坂口惣吉一等運転士。1891年福岡県三池郡に生まれる。小学校教員を経て1910年に釜石鉱山が所有する勢徳丸の水夫となる。同船に在籍すること7年の長期に及び、その間1915年に甲種二等運転士試験に、1917年には甲種一等運転士試験に合格。1920年には甲種船長試験にも合格する。第五長久丸にて一等運転士として勤め、同船沈没の後、千歳汽船に移り千早丸の船長を務めた[15]
  4. ^ この事故では炊事夫一名が死亡したとされる。なお「三陸のむかしがたり」においては事故の発生年や船名の一部が違うが、発生から相当後に聞き取りされたものであり、発生直後に書かれた「朝鮮公論」の方が正確と思われる[17]

出典

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  1. ^ 『浦賀船渠六十年史』浦賀船渠、1957年、191頁。NDLJP:2483496/137 
  2. ^ 『日本近世造船史 大正時代』造船協会、1935年、252頁。NDLJP:1879983/163 
  3. ^ 『日本汽船件名録』(4版)日本汽船件名録発行所、1916年、141頁。NDLJP:945984/81 
  4. ^ 『野州名鑑』下野新聞、1931年、1127 (平野義夫の項)頁。NDLJP:1226910/587 
  5. ^ 『日本近世造船史 附図』造船協会、1935年、第十七圖。NDLJP:1115824/35 
  6. ^ 横須賀経済経営史年表編纂事業会 編『横須賀経済経営史年表』横須賀自治研究所、1970年、60頁。NDLJP:11998199/40 
  7. ^ 堀内正名『横山久太郎:近代日本鉄鋼業の始祖』岩手東海新聞社、1957年、34頁。NDLJP:2984768/29 
  8. ^ 『工業雑誌』41(536)、工業雑誌社、1914年7月、81頁。NDLJP:1561622/31 
  9. ^ a b 『工業』(65)号、工業改良協会出版部工業学院、1914年8月、16頁。NDLJP:1560826/24 
  10. ^ 『大衆人事録』(第10版)帝国秘密探偵社、1934年、ア72頁。NDLJP:8312057/142 
  11. ^ 『東京帝国大学学術大観 工學部 航空研究所』東京帝国大学、1942年、147頁。NDLJP:1870194/106 
  12. ^ 「神宮用材 台湾阿里山の産 目下横浜陸揚中」『読売新聞』1915年6月20日、朝刊5頁。
  13. ^ 内務省土木局 編『日本の港湾』 第1巻、港湾協会、1924年、149頁。NDLJP:1870194/106 
  14. ^ 大蔵省印刷局 編『官報』第3080号、159頁、1922年11月6日。NDLJP:2955198/5 
  15. ^ 『日本高等海員名鑑』帝国海友協会、1925年、44-45頁。NDLJP:1017383/38 
  16. ^ 『朝鮮公論』(11) 5月號、朝鮮公論社、1923年5月、61頁。NDLJP:11186988/43 
  17. ^ 『三陸のむかしがたり』 第10集、三陸町老人クラブ連合会、1989年3月、92-93頁。NDLJP:9572055/56