メインメニューを開く

米 振標(まい しんひょう)は、清末民初の軍人。清末は毅軍に属する。民国時代にも毅軍総司令として北京政府で各派に属した。錦堂

米振標
No image available.svg
プロフィール
出生: 1860年咸豊10年)[1]
死去: 1928年民国17年)[2]
出身地: 清の旗 陝西省綏徳州[3]
職業: 軍人
各種表記
繁体字 米振標
簡体字 米振标
拼音 Mǐ Zhènbiāo
和名表記: まい しんひょう
発音転記: ミー ジェンビャオ
ラテン字 Mi Chen-piao
テンプレートを表示

事跡編集

最初は淮軍に加入する。その後、宋慶率いる毅軍に転じて、翼長まで昇進した。

1913年民国2年)11月、熱河省の林西鎮守使に就任し、あわせて熱河軍務幇弁を兼ねた。1915年(民国4年)12月、袁世凱が皇帝に即位すると、米振標は一等子爵に封じられている。袁世凱死後は安徽派にまず属したが、1920年(民国9年)の安直戦争後には直隷派に転じた。

1921年(民国10年)、熱河都統姜桂題の下で同省副都統をつとめ、あわせて毅軍総司令に任命された。1922年(民国11年)5月、熱河軍務幇弁として、都統王懐慶の職務を代行する。1924年(民国13年)7月、王の後任として署理熱河都統に任命される。9月の第2次奉直戦争では討逆軍第2軍副司令となった。しかし、奉天派馮玉祥の前に直隷派が敗北したため、同年12月、米は都統を罷免されている。

その後、米振標は馮玉祥率いる国民軍に転じている。1925年(民国14年)には河南軍務幇弁兼毅軍総司令に任命された。国民軍が北方各派に包囲攻撃されて一時撤退すると、米は張作霖らの安国軍に転じ、安国軍第18軍軍長兼毅軍総司令に任命された。しかし、国民革命軍北伐を受けて軍を殲滅され、米は下野した。これにより、清末以来の毅軍は完全に崩壊、消滅したことになる。

1928年(民国17年)、死去。享年69。

編集

  1. ^ 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』407頁による。
  2. ^ 綏徳県文化資源網「綏徳県地方名人:米振標」による。
  3. ^ 出身地につき、綏徳県文化資源網は綏徳県、徐友春407頁は清澗県とする。

参考文献編集

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1
  • 「綏徳県地方名人:米振標」綏徳県文化資源網(情報源は中国区県聯盟による)
  • 来新夏ほか『北洋軍閥史 下冊』南開大学出版社、2000年。ISBN 7-310-01517-7
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1
   中華民国(北京政府)北京政府
先代:
王懐慶
熱河都統(署理)
1924年7月 - 12月
次代:
闞朝璽