粘合 南合(ねんごう なんごう、? - 1263年)は、13世紀半ばにモンゴル帝国に仕えた女真人の一人。

概要編集

粘合南合はモンゴル帝国のヒタイ総督府(ヒタイ=旧金朝領華北を支配する行政府)に属する粘合重山の息子で、早くから江淮安撫使の地位を授けられ父を補佐していた[1]1238年戊戌)に粘合重山が官を辞すと行軍前中書省事の地位を継ぎ、チャガン・ノヤンが陥落させた寿春の統治を委ねられている[2]。なお、同時期に粘合重山の同僚であった耶律楚材が亡くなり息子の耶律鋳が地位を継いでいるが、粘合南合と耶律鋳は後になっても「粘合中書」「耶律中書」と呼ばれるなど、近い立場にあった[3]

第4代皇帝モンケの治世中にクビライ南宋領へ侵攻した際には山東の大軍閥の李璮の危険性を進言したとの記録がある[4]。粘合南合が李璮について知悉していたのは、江淮安撫使時代に李璮の勢力圏に近い場所にいたためと見られる[5]

1260年のモンケ・カアンの急死によってクビライとあアリクブケの間で帝位継承戦争が起こると、粘合南合はクビライの側について西京等処宣撫使の地位を授けられた[6]。「西京等処宣撫使」は陝西四川等路宣撫使とともに最初期に設置された宣撫使であるが、この任命は当時アリクブケ派の有力者アラムダールが現在の陝西・甘粛方面に進出していたのに対抗するためのものという意図があったと見られる[7]。1カ月後にはクビライの支配する領域の全土に宣撫使が派遣され、「十路宣撫司」と総称されるようになった[8]

1261年(中統2年)には中書右丞に任ぜられ[9]、ついで中興等路行中書省事に任命された[10]。ただし、同年に「平章政事北京行省」の地位を授けられたとの記録もあり、中書右丞に任ぜられた時期はもっと早いのではないかとする説もある[11]

1262年(中統3年)には秦蜀五路四川行中書省事の地位に移ったが、かつて粘合南合が懸念したように李璮の叛乱が勃発したため、クビライは使者を派遣して粘合南合に「卿の進言はまだ耳に残っている。卿は謹んで西の辺境を守って欲しい」と伝えた。これに対し、粘合南合は「臣は謹んで詔を受けます。陛下は西方について憂うことはありません」と答えたという。この後、中書平章政事に任じられたが、1263年(中統4年)に亡くなった[12]

脚注編集

  1. ^ 牧野2012,155-156頁
  2. ^ 『元史』巻146列伝33粘合重山伝,「[太宗]十年、詔其子江淮安撫使南合、嗣行軍前中書省事。時大将察罕囲寿春、七日始下、欲屠其城、南合曰『不降者、独守将耳、其民何罪』。由是獲免」
  3. ^ なお、ここでいう「中書」とは大元ウルス=元朝の中枢たる中書省ではなく、ヒタイ総督府の別称たる中書省を指す(牧野2012,156/325頁)
  4. ^ 『元史』巻146列伝33粘合重山伝,「初、世祖伐宋軍于汴、南合進曰『李璮承国厚恩、坐制一方、然其人多詐、叛無日矣』。帝亦患之」
  5. ^ 牧野2012,369頁
  6. ^ 『元史』巻4世祖本紀1,「[中統元年]夏四月戊戌朔、立中書省。……粘合南合・張啓元為西京等処宣撫使」
  7. ^ 牧野2012,196/247頁
  8. ^ 『元史』巻4世祖本紀1,「[中統元年五月]乙未、立十路宣撫司。……粘合南合為西京路宣撫使、崔巨済副之」
  9. ^ 『元史』巻4世祖本紀1,「[中統二年八月]辛丑、以宣撫使粘合南合為中書右丞、闊闊為中書左丞……」
  10. ^ 『元史』巻4世祖本紀1,「[中統二年九月]丙寅、詔以粘合南合中興等路行中書省事」
  11. ^ 牧野2012,232/324-326頁
  12. ^ 『元史』巻146列伝33粘合重山伝,「中統元年、両遷宣撫使。明年、授中書右丞・中興等路行中書省事。三年、遷秦蜀五路四川行中書省事。其年、李璮反益都、帝使諭南合曰『卿言猶在耳、璮果反矣。卿宜謹守西鄙』。対曰『臣謹受詔、不敢以西鄙為陛下憂』。明年、授中書平章政事。四年、病卒。封魏国公、諡宣昭。子博温察児、知河中府」

参考文献編集

  • 杉山正明『耶律楚材とその時代』白帝社、1996年
  • 藤野彪/牧野修二編『元朝史論集』汲古書院、2012年
  • 元史』巻146列伝33粘合重山伝