翟 譲(てき じょう/たく じょう[1]、生年不詳 - 617年)は、中国隋末の民衆叛乱の指導者。本貫東郡韋城県(現在の河南省安陽市滑県)。

生涯

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隋に仕えて東郡法曹となったが、616年に事件に連座して斬刑となるところ、獄吏の黄君漢の助けで脱獄した。瓦崗に逃れて隋に叛いた。単雄信徐世勣らを迎えて、東郡と梁郡の境で公私の船を掠奪し、一万人あまりの人々を集めた。

李密王伯当らを迎え、李密の活躍により隋の河南討捕大使張須陀を敗死させた。617年、李密の勧めで東都洛陽の攻略に乗り出し、興洛倉(現在の河南省鄭州市鞏義市)を奪取して、官倉を開き民衆にほしいままに取らせた。また裴仁基らの隋軍を撃破した。

李密を魏公に擁立して、自身は上柱国司徒・東郡公を称した。李密は回洛倉(現在の河南省洛陽市瀍河回族区)や黎陽を奪い、王世充らの隋軍を撃破し、竇建徳朱粲を帰服させ、裴仁基や柴孝和らを迎えて威勢は振るった。

王儒信や翟譲の兄の翟弘らが翟譲に李密の大権を奪うよう勧め、翟譲はこれを笑い飛ばしたが、李密はこのことを知って憎んだ。房彦藻や鄭頲が翟譲の貪欲不仁ぶりを李密に告発し、翟譲を排除するよう勧めた。李密は逡巡したが、やがて説得に応じ、翟譲を酒席に招いた。李密が良弓を持ち出したので、翟譲はその弓を引いてみたところ、蔡建徳に後ろから斬られた。直後に翟弘・翟摩侯(翟譲の甥)・王儒信らも殺された。

脚注

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  1. ^ 翟の読みについては、『通志』氏族略に「翟氏、亦作狄、音、亦音。祁姓、黄帝之後、世居翟地。国語云、翟国為晋所滅、子孫以国為氏。」とあり、テキ/タクの二通りがある。ここでは三崎良章『五胡十六国』(東方書店、2002年、ISBN 9784497202017)にしたがい、記事名を「テキ譲」とする。