洛陽市

中国河南省の地級市
洛陽から転送)

洛陽市(らくようし、簡体字中国語: 洛阳市拼音: Luòyáng)は、中華人民共和国河南省西部に位置する地級市

中華人民共和国 河南省 洛陽市
上から時計回り: 龍門石窟、市の花の牡丹、竜門大橋、白馬寺
上から時計回り: 龍門石窟、市の花の牡丹、竜門大橋、白馬寺
上から時計回り: 龍門石窟、市の花の牡丹、竜門大橋、白馬寺
別称:
旧称:西亳、洛邑、雒陽、神都
河南省中の洛陽市の位置
河南省中の洛陽市の位置
河南省中の洛陽市の位置
中心座標 北緯34度39分 東経112度26分 / 北緯34.650度 東経112.433度 / 34.650; 112.433
簡体字 洛阳
繁体字 洛陽
拼音 Luòyáng
カタカナ転写 ルオヤン
国家 中華人民共和国の旗 中華人民共和国
河南
行政級別 地級市
市委書記 江凌
市長 徐衣顕
面積
総面積 15,208 km²
市区 4,304 km²
海抜 144 m
人口
総人口(2016) 662 万人
市区人口(2015) 215.77 万人
経済
GDP(2016) 3782.9 億元
一人あたりGDP 57,100元
電話番号 0379
郵便番号 471000
ナンバープレート 豫C
行政区画代碼 410300
市花 ボタン
公式ウェブサイト http://www.ly.gov.cn/

中国史上、しばしば関中長安と並んで中国王朝の首都となった。

晋隋唐の時代、西に金鏞城、中原に進撃する東に武庫があった。

998年あたりまで平安京左京のモデルのような受け取り方がなされた。

地名の由来 編集

洛陽の南には洛水が流れており、これが地名の由来となっている。「陽」は「日当たりのいい場所」の意で、河谷の北側斜面などの南中した太陽と向かい合う土地を指す。つまり、山岳や丘陵の斜面では河谷とは逆に「陽」は南側斜面にあたる。

地理 編集

河南省西部にあり、黄河の中流にある。総面積は、15,208 平方キロメートルであり、区部の面積は 544 平方キロメートルである。黄河洛河伊河澗河瀍河が領域内を流れる。東に虎牢関、西に函谷関、北に邙山、南に伏牛山がある。中岳嵩山も隣接する。古くから兵家必争の地であり、歴代の帝王が都を建てようと考えた土地でもあった。

洛陽市の気候の特徴は、四季がはっきり分かれ、冬は寒くて降水が少なく、春は乾燥し風が多く、夏は非常に暑く雨が集中して多いことである。秋には晴れて日照時間が長い。年平均気温は摂氏 14.7 度、年平均降水量は601.6 ミリメートルである。

北部の三門峡市が編入したり、独立したりを都度繰り返す。この三門峡市の北側に黄河が流れ、1960年に黄河を堰き止める形で三門峡ダムが建設された。

歴史 編集

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A
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洛陽の都城の変遷。1:二里頭遺跡(夏代?)2:殷代の偃師商城3:周代の王城4:漢魏代の洛陽城(外城は北魏による。)5a:隋唐代の洛陽城と 5b:宮城、A:白馬寺、B:奉先寺

黄河支流の洛水流域はそれまで黄土高原を流れてきた黄河が華北平原に出る位置にある。つまり、黄土高原において重要な勢力を養ってきた黄河支流の渭水)、汾水)流域からの華北平原への出口に位置しており、なおかつ邙山により黄河本流の氾濫からは遮られている。そのため、この地域一帯には新石器時代より重要な遺跡が残されている。洛河支流の澗河上流には仰韶文化の発見由来ともなった仰韶村遺跡があり、文化古典伝承のに相当するとも考えられている二里頭遺跡初期の都城遺跡である偃師商城などが並んでいる。

洛陽の歴史は、成王の時代に殷を滅ぼした周の東方経営の拠点の下都として洛邑の都城が築かれて、王城成周東都と呼ばれたことに始まる。平王の時代、戦乱により荒廃した渭水流域の宗周鎬京城(後世の長安)より都が移された。

こうした経緯から、中国古代の王朝では渭水流域の軍事力と結びついた「長安」と華北平原の経済力と結びついた「洛陽」が対になって首都機能を担う形が出来上がっていった。

その後、後漢三国魏西晋北魏後唐などにおいて「洛陽」に都が置かれている。

漢代では、火徳とする漢王朝に「洛」字の水偏(サンズイ)が忌まれ、「雒陽」に改名された。しかし、土徳を掲げる曹魏により元の洛陽に戻された。

また、唐朝を一時簒奪した女帝武則天の朝廷である武周690年 - 705年)では神都と改名されて都となった。これも唐の復活により元の洛陽の名に戻された。

三国時代の呉から南朝の統治下で江南の開発が進み、華北平原と取って替わって穀倉地帯としての地位が向上した。隋の南北統一と大運河の建設により華北の政権を江南の生産力が支える形が確立された。洛陽は江南の物資を長安の軍事、政治と結びつける集積地として「東都」とも呼ばれて繁栄した。

しかし唐王朝の衰退・滅亡で渭水流域の軍事的政治的地位が凋落すると、江南の生産力を華北に移送する集積地としての地位はより東方の開封に取って代わられることとなった。

その後、五代十国時代を経て、建国されたではいよいよ開封が本格的な首都とされた。

さらに元代以降は、政治の中心がモンゴル高原東部の騎馬軍事力を背景とした北京に移り変わり、これを南京に集積された江南の富が支える形が確立して、洛陽の歴史的な首都機能は失われた。このため中国本土の中心地としての重要性こそ低下したが、河南地域の主要都市としての地位は現在まで受け継がれている。

清代には河南府の府治が設置され、中華民国が成立すると洛陽専区が設置されていた(1948年に設置された洛陽市は県級市であり、洛陽地区の管轄下に置かれた)。

1944年には大陸打通作戦により、日本軍に占領された。1956年に地級市としての洛陽市が成立している。

2000年ユネスコ世界遺産に登録された龍門洞窟は洛陽市郊外に位置している。これは493年太和17年)、北魏が洛陽に遷都した時代に建築が始まった石窟寺院であり、中唐まで、およそ3万体の仏像が石窟の中に作られたものである。

また、洛陽は長安とともに2014年に世界遺産に登録されたシルクロードも構成している。

 
洛陽の古い街並み
 
洛陽城の外城の正門『定鼎門』

行政区画 編集

7市轄区・7県を管轄下に置く。

洛陽市の地図

年表 編集

この節の出典[1][2]

洛陽地区 編集

  • 1949年10月1日 - 中華人民共和国河南省洛陽専区が成立。洛陽市洛陽県偃師県孟津県新安県宜陽県伊陽県伊川県嵩県が発足。(1市8県)
  • 1952年4月8日 - 陝州専区陝県澠池県洛寧県盧氏県欒川県霊宝県閿郷県を編入。(1市15県)
  • 1954年4月19日 - 洛陽市が地級市の洛陽市に昇格。(15県)
  • 1954年6月21日 - 閿郷県が霊宝県に編入。(14県)
  • 1954年9月4日 - 許昌専区臨汝県を編入。(15県)
  • 1955年3月4日 - 洛陽県の一部が洛陽市郊区に編入。(15県)
  • 1955年11月7日 - 洛陽県が孟津県・偃師県・宜陽県に分割編入。(14県)
  • 1956年6月30日 - 孟津県の一部が洛陽市郊区に編入。(14県)
  • 1957年3月26日 - 陝県の一部が分立し、地級市の三門峡市となる。(14県)
  • 1958年12月8日 - 洛陽市三門峡市を編入。洛陽市・三門峡市が県級市に降格。(2市14県)
  • 1959年8月21日 - 伊陽県が汝陽県に改称。(2市14県)
  • 1959年10月1日 - 陝県が三門峡市に編入。(2市13県)
  • 1960年8月15日 - 欒川県が嵩県に編入。(2市12県)
  • 1961年10月5日 - 嵩県の一部が分立し、欒川県が発足。(2市13県)
  • 1962年3月27日 - 三門峡市の一部が分立し、陝県が発足。(2市14県)
  • 1964年4月30日 - 洛陽市が地級市の洛陽市に昇格。(1市14県)
  • 1969年3月15日 - 洛陽専区が洛陽地区に改称。(1市14県)
  • 1970年1月27日 - 澠池県の一部が分立し、義馬鉱区が発足。(1市14県1鉱区)
  • 1971年11月8日 - 孟津県が洛陽市に編入。(1市13県1鉱区)
  • 1976年11月12日 - 洛陽市孟津県を編入。(1市14県1鉱区)
  • 1981年4月4日 - 義馬鉱区が市制施行し、義馬市となる。(2市14県)
  • 1983年9月1日 - 新安県・偃師県・孟津県が洛陽市に編入。(2市11県)
  • 1986年1月18日
    • 三門峡市が地級市の三門峡市に昇格。
    • 義馬市・澠池県・陝県・霊宝県・盧氏県が三門峡市に編入。
    • 欒川県・嵩県・汝陽県・宜陽県・伊川県・洛寧県が洛陽市に編入。
    • 臨汝県が平頂山市に編入。

洛陽市(第1次) 編集

  • 1954年4月19日 - 洛陽専区洛陽市が地級市の洛陽市に昇格。一区二区郊区が成立。(3区)
  • 1955年3月4日 - 洛陽専区洛陽県の一部が郊区に編入。(3区)
  • 1955年12月 - 一区・二区が合併し、老城区が発足。(2区)
  • 1956年3月17日 (4区)
    • 郊区の一部が分立し、澗西区が発足。
    • 老城区の一部が分立し、西工区が発足。
  • 1956年6月30日 - 洛陽専区孟津県の一部が郊区に編入。(4区)
  • 1958年12月8日 - 洛陽市が洛陽専区に編入。

洛陽市(第2次) 編集

  • 1964年4月30日 - 洛陽専区洛陽市が地級市の洛陽市に昇格。澗西区洛北区瀍河回族区郊区が成立。(4区)
  • 1971年11月8日 - 洛陽地区孟津県を編入。(4区1県)
  • 1975年12月20日 - 洛北区の一部が分立し、西工区が発足。(5区1県)
  • 1976年11月12日 - 孟津県が洛陽地区に編入。(5区)
  • 1982年1月30日 - 洛北区が老城区に改称。(5区)
  • 1982年8月13日 - 新郷地区孟県済源県の各一部が合併し、吉利区が発足。(6区)
  • 1983年9月1日 - 洛陽地区新安県偃師県孟津県を編入。(6区3県)
  • 1986年1月18日 - 洛陽地区欒川県嵩県汝陽県宜陽県伊川県洛寧県を編入。(6区9県)
  • 1993年12月15日 - 偃師県が市制施行し、偃師市となる。(6区1市8県)
  • 2000年5月20日 (6区1市8県)
    • 郊区・西工区の各一部が合併し、洛竜区が発足。
    • 郊区の残部が澗西区・西工区・老城区・瀍河回族区に分割編入。
  • 2006年6月 - 宜陽県の一部が洛竜区に編入。(6区1市8県)
  • 2007年5月 - 西工区の一部が澗西区に編入。(6区1市8県)
  • 2008年5月 - 伊川県の一部が洛竜区に編入。(6区1市8県)
  • 2009年12月21日 - 偃師市の一部が洛竜区に編入。(6区1市8県)
  • 2010年3月19日 - 偃師市の一部が洛竜区に編入。(6区1市8県)
  • 2011年5月9日 - 偃師市の一部が洛竜区に編入。(6区1市8県)
  • 2013年2月22日 - 宜陽県の一部が洛竜区に編入。(6区1市8県)
  • 2021年3月18日 (7区7県)
    • 偃師市が区制施行し、偃師区となる。
    • 孟津県・吉利区が合併し、孟津区が発足。

人口 編集

総人口は615万人であり、区部にはそのうち140万人が住む。

洛陽市には様々な民族が雑居し、その数は合わせて32民族を数える。その中で漢族は602万人であり、市の人口の98.8%を占める。その他の少数民族は8万人近くおり、市の人口の 1.2 パーセントを占める。回族満州族モンゴル族が比較的多い。

教育 編集

観光 編集

ギャラリー 編集

経済 編集

交通 編集

航空 編集

鉄道 編集

 
洛陽竜門駅
 
洛陽軌道交通1号線

バス 編集

 
洛陽公交の路線バス

道路 編集

 
中心部の王城大道快速路

姉妹都市・提携都市 編集

姉妹都市

関連項目 編集

脚注  編集

外部リンク 編集

座標: 北緯34度39分0秒 東経112度26分0秒 / 北緯34.65000度 東経112.43333度 / 34.65000; 112.43333 (洛陽市)