耶律善補(やりつ ぜんほ、生没年不詳)は、(契丹)の軍人。名は善布とも書かれる。は瑤昇。

経歴 編集

孟父楚国王の末裔。景宗が即位すると、千牛衛大将軍の位を受け、大同軍節度使に転じた。乾亨元年(979年)、韓匡嗣耶律沙とともに東路を進んで北宋を攻撃すると、善補は山西の兵を率いて西路を進んだ。善補は匡嗣らの敗戦を聞くと、兵を返した。乾亨4年(982年)、南京統軍使として宋軍と満城で戦い、伏兵の包囲を受けたが、耶律斜軫の救援によって脱出した。防備を怠った罪により、杖罰を受けた。

統和元年(983年)、惕隠となった。北宋の侵攻を受け、善補は都元帥として迎撃の任にあたったが、あえて戦おうとせず、故嶺の西の州郡の多くが陥落したため、惕隠を罷免された。叔父の耶律安端に世宗を補佐した功績があったことから、聖宗は善補をあわれんで、南府宰相に任じた。さらに南院大王に転じた。

後に聖宗が北宋に対する南征の軍を起こすと、魏府を攻撃するため、諸将を集めて議論させた。諸将たちは魏城に防備が薄いことを理由に攻撃を進言したが、善補が強く反対したため取りやめられた。

善補は守静を好み、征戦においても攻撃を厭って、突然に軍を返したりしたので、敗戦することが多かった。74歳で死去した。

伝記資料 編集