耶律燕哥(やりつ えんか、生年不詳 - 1095年頃)は、(契丹)の政治家は善寧。

経歴編集

季父房耶律鐸穏の後裔。太師耶律豁里斯の子として生まれた。清寧年間、左護衛太保となった。太康元年(1075年)、北面林牙に転じた。2年(1076年)、耶律乙辛が北院枢密使として復帰すると、燕哥は乙辛の耳目として仕え、見聞きしたことを必ず報告した。乙辛の推薦を受けて、左夷離畢に任じられた。3年(1077年)6月、皇太子耶律濬が誣告を受けると、道宗は燕哥を太子のもとに派遣して事情を聴取させた。太子は燕哥に無実を訴えたが、燕哥は蕭十三の意見を容れて、内容を変えて奏上した。皇太子派を粛清し、乙辛が権力を確立するのに、燕哥の協力は大きかった。12月、燕哥は契丹行宮都部署となった。5年(1079年)5月、南府宰相となった。8年(1082年)2月、惕隠に転じた。

太安3年(1087年)、西京留守となり、致仕した。寿昌初年、病没した。

伝記資料編集

  • 遼史』巻110 列伝第40 姦臣上