耶律馬六(やりつ ばりく、生没年不詳)は、(契丹)の政治家は揚隠。

経歴 編集

孟父楚国王の末裔。性格は寛容で諧謔を好み、親しい友人と会すると座興を傾けつくし、名誉や利益には恬淡としていた。耶律弘古と血盟を交わした友人の間柄で、耶律弘古が惕隠となると、推薦を受けて宿直官に補任された。

重熙元年(1032年)、旗鼓拽剌詳穏に転じた。重熙3年(1034年)、崇徳宮使に転じた。重熙5年(1036年)4月、惕隠となった。重熙7年(1038年)、北院宣徽使に任じられた。興宗の寵遇を受けて兄と呼ばれた。後に西京留守をつとめた。重熙15年(1046年)、漢人行宮都部署となった。

遼興軍節度使に転じ、まもなく死去した。享年は70。

子の耶律奴古達は、南京宣徽使となった。

伝記資料 編集