荒尾成昭
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荒尾 成昭(あらお なりあき)は、江戸時代中期の鳥取藩家老。米子荒尾家5代。
時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 正徳5年(1715年) |
死没 | 延享4年11月4日(1747年12月5日) |
改名 | 平左衛門(幼名)→成昭 |
別名 | 伊勢、山城、但馬、河内、大和(通称) |
戒名 | 英智院殿 |
墓所 | 鳥取県米子市の了春寺 |
主君 | 池田吉泰→宗泰 |
藩 | 鳥取藩家老 |
氏族 | 荒尾氏 |
父母 | 父:荒尾成倫 |
子 | 養子:成昌 |
経歴
編集正徳5年(1715年)、鳥取藩家老荒尾成倫の長男として生まれる。享保14年(1729年)2月、藩主池田吉泰に初めて御目見する。享保19年(1734年)7月に成倫が死去し、9月に家督相続が認められ米子領主となる。
享保20年(1735年)10月、桜町天皇即位式の祝賀使を務める。元文元年(1736年)、成昭が病に臥して目の届かないのを良いことに、家臣の湯浅清六、湯浅九左衛門が家政をほしいままに取り計らって家中対立が生じ、双方に暇を出す事態となる[1]。延享2年(1745年)3月、御職家老(執政家老)となり、河内を大和と改名する。
延享4年(1747年)8月21日、病床にあった藩主宗泰が死去し、9月5日、幼い継嗣勝五郎(重寛)の藩主相続のため江戸に出府するも、途中で病を発する。幕府より勝五郎の相続が認められ、10月12日に老中より池田家家老として呼び出しを受けるも、病床のため、同じく家老の荒尾斯就のみ出席して申し渡しを受けた[2]。同年11月4日、江戸藩邸で死去、享年33。家督は養子の成昌(分家荒尾成庸の子)が相続した。
成昭の死去により後任が置かれず、荒尾斯就1人が幼主勝五郎を擁して専横を極め、宝暦4年(1754年)、勝五郎の母桂香院に家老職を罷免されて失脚することになる[3]。
脚注
編集参考文献
編集- 『因府年表』
- 『新修鳥取市史 第2巻』