荒木幸雄

日本の飛行士、軍人

荒木 幸雄(あらき ゆきお、1928年3月10日 - 1945年5月27日)は、群馬県桐生市出身の大日本帝国陸軍軍人、操縦士、陸軍特別攻撃隊第72振武隊員。

荒木 幸雄
子犬を抱いた少年兵(中央が荒木)毎日新聞社より 前列左より、早川勉伍長、荒木幸雄伍長、千田孝正伍長。後列左から、高橋要伍長、高橋峯好 伍長
生誕 1928年3月10日
日本の旗 日本 群馬県桐生市宮前町
死没 (1945-05-27) 1945年5月27日(17歳没)
日本の旗 日本 沖縄本島沖
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1944年 - 1945年
最終階級 陸軍少尉
戦闘 沖縄戦
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「子犬を抱いた少年兵」(右図)の写真で知られる。

生涯 編集

荒木幸雄は昭和3年(1928年)3月10日、桐生市宮前町二丁目の菓子屋「高梅堂」を営む荒木丑次(享年65)・ツマ(享年83)夫婦の、男の子ばかりの5人兄弟の次男として生まれる。学校ではあまり目立たず、小さい子の面倒をよくみる子だったという。家では拾ってきた雑種の犬を飼って可愛がっていた。

荒木が桐生市西小学校を卒業の翌年、太平洋戦争(大東亜戦争)が始まる。幸雄少年は在学していた桐生市商業青年学校を中途退学、昭和18年(1943年)の秋、陸軍の少年飛行兵に応募。高倍率・最難関の筆記試験に合格して大刀洗陸軍飛行学校生徒隊に入隊する。戦局の悪化によって1年の課程を半年で習得する事態にあったが、荒木は学問(地理学・気象学)・飛行訓練に優れた才能を存分に発揮し、1944年の卒業時には最高栄誉とされる陸軍航空総監賞を受賞した。

同年10月から特攻作戦が始まると、優秀な操縦士だった荒木はすぐ選ばれた。桐生に戻った荒木は「大命が下りました」とだけ告げて家族に手紙を手渡し、知らせがあったら開封するように告げてすぐに第72振武隊に合流した[1]

佐賀県にある特攻隊員の宿舎だった西往寺で、第72振武隊の荒木伍長ほか少年飛行兵第15期出身者等は「ほがらか部隊」を自称し、隊長である佐藤睦夫中尉指揮の元、出撃までを過ごす。当初の出撃予定日だった1945年5月26日、出撃予定時刻の2時間前に記念撮影を行うが、その日は出撃中止となった。5月27日、第72振武隊の隊員は万世飛行場を出撃後、沖縄本島中部に広がる金武湾の東約50kmの位置で、アメリカ海軍のレーダーピケット駆逐艦「ブレイン」(USS Braine, DD-630)に突入したと推測されている。根拠として、突入直前の第72振武隊九九式襲撃機の写真が残存しているため、荒木もこの駆逐艦を目標としたと考えられる。ブレインは第72振武隊の突入によって大破・炎上、荒木も戦死した。享年17。 家族に公式に通知されるのは、終戦後の昭和20年11月30日付の死亡告知書で12月半ば過ぎであった。

桐生に残された墓には髪と爪だけが残っている。

遺書 編集

荒木が出撃を前に、父に宛てた遺書が残っている。以下

         陸軍伍長 荒木幸雄

最后の便り致します
其後御元気の事と思ひます
幸雄も栄ある任務をおび
本日出発致します。
必ず大戦果を挙げます
桜咲く九段で会う日を待って居ります
どうぞ御身体を大切に
弟達及隣組の皆様にも宜敷く さようなら

脚注 編集

  1. ^ 第72振武隊は12名中7名が10代の少年だった。

参考文献 編集

  • 「ユキは十七歳 特攻で死んだ - 子犬よさらば、愛しきいのち」毛利恒之・ポプラ社
  • 「新編 知覧特別攻撃隊」高岡修・ジャプラン

外部リンク 編集