菅専助
江戸時代中期~後期の上方の浄瑠璃太夫、浄瑠璃作者。
菅 専助(すが せんすけ、生没年未詳[1])は、江戸時代後期の浄瑠璃太夫、浄瑠璃作者。人形浄瑠璃衰退期に、主に豊竹座のために筆を執った。近松半二とともに、義太夫節の最後を飾る人物とされる[1]。
略歴
編集医師の子として生まれ、豊竹此太夫(2代目)に入門し、豊竹光太夫を名のった[1]。1757年(宝暦7年)、子ども芝居の浄瑠璃を語ったのが資料上の初出である[1]。豊竹座および豊竹座此吉座の太夫として活動し、1767年(明和4年)、浄瑠璃作者としての処女作『染模様妹背門松』が大ヒットした[1]。以後、3年ほど浄瑠璃作者と太夫の兼業が続いた後、浄瑠璃作家に専念し、師の此太夫とともに市の側芝居の全盛期を築いた[1]。1780年(安永9年)京都に移住し、『稲荷街道墨染桜』を最後に引退する[1]。9年後、師の此太夫のために『博多織恋〓(金偏に荷)』『花楓都模様』などを執筆する[1]。1792年(寛政3年)以降の消息は不明[1]。
代表作品
編集丸本に名前が残る作品が33編あり、世話物が13編を占める[1]。単独作は10作、残りの合作23作のうち、12作が若竹笛躬との共作である[1]。改作の方法として、新たに兄弟や許嫁などを設けて筋を複雑化し、主人公と敵役の対立を鮮明化する、原作の基本を崩さず会話文を増やすといった特徴が挙げられる[1]。