蔣百里

中国の軍事理論家 (1882-1938)
蒋百里から転送)

蔣 百里(しょう はくり、1882年10月13日 - 1938年11月4日)は、中華民国の軍事理論家・陸軍上将。字は百里。号は澹寧。

蔣 百里
蒋 百里
生誕 (1882-10-13) 1882年10月13日
浙江省杭州府海寧州硖石鎮
死没 1938年11月4日(1938-11-04)(56歳)
中華民国の旗 中華民国 広西省宜山県
最終階級 陸軍上将
配偶者 査品珍
佐藤屋登(蔣佐梅)
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蔣 百里
各種表記
繁体字 蔣 百里
簡体字 蒋 百里
拼音 Jiǎng Bǎilǐ
和名表記: しょう はくり
英語名 Jiang Baili
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経歴 編集

1882年10月13日、浙江省杭州府海寧州硖石鎮(現在の硖石街道中国語版)で生まれる。1898年、科挙郷試を通じて秀才になった。1899年、浙江省に入った求是書院は、銭均夫、励綏之と同窓だった。1901年に清華学校に入学した。蔣百里は地方の役人に認められ、その援助を受けて日本に渡り、東京振武学校陸軍士官学校の第15期に入学した。

1906年に蔣百里が帰国し、趙爾巽幕府で東三省督練公所総参議に任命される。

1912年、保定陸軍軍官学校校長(学長)に就任[1]

1913年に袁世凱に総統府軍事処の一等参議に委任され、翌年に『孫子新釈』を著した。

1916年に袁世凱の皇帝呼称に反対し、蔣百里は広東省に亡命し、両広護国軍都司令部出師計画股主任に就任した。その後、蔣百里は蔡鍔に付き添って日本へ医者に行った。

1917年に黎元洪総統府顧問に就任し、『軍事常識』を著した。

1918年末に梁啓超とともにヨーロッパを視察し、1920年に帰国し、新文化運動に投入された。

1925年に蔣百里は漢口まで呉佩孚の軍総参謀長を務めた。蔣百里は1926年に辞任して上海に戻って孫伝芳に頼ったが、孫伝芳が張作霖に頼ったため退職した。

1930年1月、学生の唐生智蔣介石に反対して投獄された。1931年の満洲事変(九一八事変)後に釈放された。

1935年に国民政府軍事委員会中国語版高等顧問に就任した。翌年春に欧州を視察し、帰国後は空軍の発展、現代国防の建設を提唱した。

1937年9月、蔣百里は蔣介石の特使としてイタリア王国ナチス・ドイツを訪問した。

1938年8月に陸軍大学校長代行に就任し、11月4日に広西省宜山県(現在の宜州区)で病没した

家族 編集

妻:査品珍、佐藤屋登(蔣佐梅)[2]

女:蔣昭、蔣雍、蔣英(夫:銭学森)、蔣華、蔣和

脚注 編集

  1. ^ 葉永烈 2014, p. 98.
  2. ^ 葉永烈 2014, p. 99.

参考文献 編集

  • (中国語) 『中国大百科全書・軍事Ⅰ』. 北京市: 中国大百科全書出版社. (1989). p. 471. ISBN 978-7-5000-0242-0 
  • 葉永烈 (2014) (中国語). 『銭学森伝』. 北京市: 中国青年出版社. ISBN 978-7-5153-2932-1