蕭 続(蕭續、しょう ぞく、天監3年(504年)- 中大同2年1月4日[1]547年2月9日))は、南朝梁の武帝蕭衍の五男。廬陵威王。は世訢。

経歴 編集

蕭衍と丁貴嬪のあいだの子として生まれた。天監8年(509年)、廬陵郡王に封じられた。天監10年(511年)、軽車将軍・南彭城琅邪二郡太守に任じられた。天監13年(514年)、会稽郡太守に転じた。天監16年(517年)、都督江州諸軍事・雲麾将軍・江州刺史となった。普通元年(520年)、召還されて宣毅将軍・領石頭戍事となった。

蕭続は膂力にすぐれ、狩猟で騎射すると必ず命中させたので、蕭衍は「これはわたしの任城である」と評した。かつて臨賀王蕭正徳や胡貴通・趙伯超らとともに蕭衍の前で騎射の腕くらべをおこなって、蕭続は優勝してみせた。普通3年(522年)、使持節・都督雍梁秦沙四州諸軍事・西中郎将・雍州刺史となった。普通7年(526年)、宣毅将軍の位を加えられた。中大通2年(530年)、使持節・都督雍梁秦沙四州諸軍事・平北将軍・寧蛮校尉・雍州刺史となった。中大通4年(532年)、安北将軍に転じた。大同元年(535年)、使持節・都督江州諸軍事・安南将軍・江州刺史となった。大同3年(537年)、召還されて護軍将軍・領石頭戍事となった。大同5年(539年)、驃騎将軍・開府儀同三司の位を受けた。使持節・都督荊郢司雍南北秦梁巴華九州諸軍事・荊州刺史として出向した。

中大同2年正月壬寅(547年2月9日)、荊州で死去した。享年は44。司空・散騎常侍・驃騎大将軍の位を追贈された。は威といった。

子女 編集

  • 蕭憑(後嗣、罪により処刑された)
  • 蕭応(蕭憑の死後に後を嗣いだ)

脚注 編集

  1. ^ 『梁書』巻3, 武帝紀下 中大同二年正月壬寅条による。

伝記資料 編集