薛 謹(せつ きん、401年 - 444年)は、後秦から北魏にかけての人物。は法順。本貫河東郡汾陰県

経歴編集

薛弁の子として生まれた。容貌は魁偉で、史伝に通じた。

東晋劉裕が後秦を滅ぼすと、薛謹は劉裕に召されて相府行参軍となった。まもなく記室参軍に転じた。

父の薛弁が北魏に亡命しようと、ひそかに薛謹に連絡をよこすと、薛謹は彭城から北に逃れた。北魏の河東郡太守に任じられた。後に父の平西将軍・汾陰侯の位を嗣いだ。薛謹の治所である河東郡はと隣接しており、薛謹は夏と対峙しつつ、行政に手腕をふるった。

426年始光3年)、太武帝の命により奚斤が夏の赫連昌を討つと、薛謹は偏師を率いて先鋒の道案内をつとめた。北魏軍が蒲坂を落とすと、太武帝は新領を河東郡に編入した。薛謹は平西将軍・河東郡太守のまま秦州刺史となった。

434年延和3年)、山胡の白龍が北魏にそむくと、薛謹は奚眷とともに太平から北に入り、白龍の乱を鎮圧した。秦州刺史のまま安西将軍・涪陵公の位を受けた。

435年太延元年)、吐没骨を討った。薛謹の河東郡と秦州の統治は威刑と寛容を兼備し、儒教の教化を広めたものとして称揚された。

440年太平真君元年)、平城に召還されて、内都坐大官に任じられた。

444年(太平真君5年)、都将となり、柔然に対する北伐に従軍したが、反乱を準備したとして中山王拓跋辰らとともに都南で斬られた。享年は44。鎮西将軍・秦雍二州刺史の位を追贈された。は元公といった。

子女編集

  • 薛初古抜
  • 薛洪隆(字は菩提、陽平王常侍、河東郡太守)
  • 薛破胡(州治中別駕、河東郡太守、征仇池都将)
  • 薛破氐(州別駕、早世)
  • 薛積善(中書博士、臨淮王友)

伝記資料編集