袁彬
生涯
編集正統14年(1449年)、オイラトのエセン・ハーンが侵攻してくると、袁彬は錦衣衛校尉として英宗の親征に扈従した。土木の変が起こり、エセンが英宗を拉致して北に去ると、英宗に随行した官僚たちはみな逃げ散ったが、袁彬と哈銘のみが侍従して、帝のそばを離れなかった。エセンが大同・宣府を侵し、北京に迫ると、英宗は皇太后と景泰帝に手紙を送ろうと、袁彬に代筆させた。エセンがその妹を英宗にとつがせようとすると、袁彬は英宗の北京帰還を条件として持ち出し、これを阻んだ。エセンが袁彬を縛り上げてその殺害を図ると、英宗が急遽駆けつけて袁彬を救った。
英宗が北京に帰還すると、袁彬は錦衣衛で百戸に試用された。天順元年(1457年)1月、英宗が復辟すると、袁彬は錦衣衛指揮僉事に抜擢された。3月、都指揮僉事に進んだ。まもなく指揮同知に進んだ。12月、錦衣衛指揮使となった[1]。天順5年(1461年)秋、曹欽の乱を鎮圧した功績により、都指揮僉事に進んだ。天順7年(1463年)、門達に逆らって南京錦衣衛に左遷され、閑職に追いやられた。
天順8年(1464年)、英宗が崩御し、門達が都勻に左遷されると、袁彬は原職に復帰して、錦衣衛の事務を管掌した。成化2年(1466年)、都指揮同知に進んだ[2]。成化9年(1473年)、母が死去したため、特別に祭葬を賜った[3]。成化13年(1477年)、袁彬は前軍都督府都督僉事となった。在官のまま死去した。
著書に『北征事蹟』1巻[4]があった。
脚注
編集参考文献
編集- 『明史』巻167 列伝第55