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西東京市立田無小学校(にしとうきょうしりつ たなし しょうがっこう)は、東京都西東京市田無町にある公立小学校である。田無四丁目の住宅地に所在し、学校の敷地・校舎は西武新宿線田無駅北口から程近い位置にある。

西東京市立田無小学校
Tanashi Elementary School
田無小学校-18.JPG
田無小学校
(2015年5月30日撮影)
過去の名称 真誠学舎
田無学校
田無町立田無小学校
田無市立田無小学校
国公私立の別 公立学校
設置者 西東京市
設立年月日 1873年(明治6年)8月25日
開校記念日 4月22日
共学・別学 男女共学
学期 3学期制
小学校コード 259010
所在地 188-0011
東京都西東京市田無町四丁目5番21号
外部リンク 公式サイト
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概要編集

学校は西武新宿線の田無駅から西方向に程近く位置し、田無駅北口を出て駅前広場を西方向に進み、田無北口商店街の中を通り抜けると、徒歩で4分程の距離である。

沿革編集

経緯

刑部真琴像(2015年5月撮影)

田無小学校の歴史は古く、武蔵野国の士族刑部鉄太郎(おさかべ てつたろう)の二男の刑部真琴(おさかべ まこと)[1][2][3][4]が、漢学や書を学び、学校では習字を教えながら珠算や数学を学んだ。刑部真琴は、1872年(明治5年)明治政府が全国に小学校を設置した「学制」を定めたとき、開港したことで賑わっていた横浜に出て小学校で教鞭を執った。 1873年(明治6年)8月25日、神奈川県第十一大区、第八中学区第百二十四番小学、真誠学舎を田無村下宿、当時の密蔵院に開く[5]。 1875年(明治8年)7月、田無学校と校名を改称する[6]

年表
  • 1873年(明治6年)8月15日 - 小学真誠学舎を田無町密蔵院に開き、度々改築増築を経て、1923年(大正12年)現在の地に改築、1925年(大正14年)4月22日、落成し、同29日、児童を収容した[7]
  • 1875年(明治8年)7月 - 田無学校と校名を改称する。
  • 1914年(大正3年) - 現在の校章が出来た。「柏」(かしわ)の葉3枚の中央に「田」の漢字を描いた校章です。その由来は、柏の木は新芽が出るまで落葉しないこと、そして柏の葉の彫りの深いこと、から愛情深く表裏のない誠実さを象徴している[8]
  • 1923年(大正12年) - 現在地に改築することを決める。
  • 1925年(大正14年)
    • 4月22日 - 現在地に移転し新校舎を落成した。
    • 4月29日 - 現在地に初めて児童を収容した。
  • 1947年(昭和22年)4月 - 学制改革により田無町立田無小学校と改称した。
  • 1955年(昭和30年) - 児童数が2,040名と最も多かった年である。
  • 1967年(昭和42年)1月 - 市制施行により田無市立田無小学校と改称した。
  • 2001年(平成13年)1月 - 保谷市との合併により西東京市立田無小学校と改称した。
  • 2013年(平成25年)2月 - 西東京市教育委員会の研究指定を受け研究発表を行った。
密蔵院と総持寺

田無の寺社は総持寺が一番大きく、元は西光寺と称して新義真言宗、石神井三寶寺末である。始めは字谷戸にあったが、宿駅開始の後今の地に移った。谷戸の低地に臨める小高地で、もよより相当の古寺と思われるが由緒縁起は一切不明である。今の地に移って以来、除地六石二斗九升四合を与えられた。明治初年に同じ宿内の密蔵院、観音寺、両寺を併せ、今の名に改めた。密蔵院はもと西光寺の側にあって、同じく新義真言宗三寶寺末で、除地は三石五斗五升与えられていた。観音寺は宿の西方にあり、同じく新義真言宗三寶寺末で、除地は六石一斗四升余与えられていた。縁起は密蔵院と共に不明である。只開山を賢学と称すが、示寂の年月は分からない。密蔵院は早く亡びたけれども、観音寺は今も小庵と墓地とを残している。以上の三寺は1868年(明治元年)振武軍の駐屯所となった[9]

昭和14年の田無町
  • 市郡島名 - 北多摩郡。
  • 区町村名 - 田無町。
  • 役所、役場 - 位置田無町369、交通西武線田無駅より250m徒歩3分、省線武蔵境駅よりバスにて7分、武蔵野鉄道保谷駅よりバスにて20分、電話田無42。
  • 大字、字名 - 柳澤、下宿、上宿、下向台、上向台、南芝久保、北芝久保、西原、北原、谷戸。
  • 面積(平方km)、土地(町)、世帯人口 - 国有地38.01、民有地592.19(有租地579.88、無租地12.31、無租年期地-)、世帯(国調)773、人口(国調)4,341、推計人口4,600。
  • 生産価格 - 米4,705、麦72,314、養蚕58,156、畜産9,242、林産630、水産-、工産122,832。
  • 教育 - 小学校1、教員16、児童833
  • 財政 - 歳出予算・総額39,363、役場費8,398、教育費21,254、社会事業費100、公債費-、其他諸費9,611、基本財政(10年度末)3,200、公債(12年度末)-。
  • 沿革 - 太田道潅江戸築城の時、石灰運搬のため開鑿せる道路は当地を通過する江戸道、今の青梅街道で、この街道に発生した豪落が当町の基礎をなしたものである。
1868年(明治元年) - 韮山懸所轄。
1871年(明治4年) - 品川懸管下。
1872年(明治5年) - 神奈川懸所管
1878年(明治11年) - 北多摩郡所属。
1879年(明治12年) - 田無村を田無町と改称。
1889年(明治22年) - 町村制に依る町制施行地となる。
1893年(明治26年) - 東京府に移管[10]
昭和13年の田無町の教育
  • 小学校1校、職員数18人(男12人、女6人)、児童数854人(男441人、女413人)、最近3ヶ年間の小学校費(昭和11年16,982円、昭和12年17,271円、昭和13年17,811円)、児童1人当りの平均教育費20円85銭、1戸当りの平均教育費23円74銭。
  • 青年学校1校、職員数13人其内訳、校長1人、教論2人、助教論3人、指導員6人、講師1人、計13人。生徒数139人、其内訳、普通科6人、本科118人、研究科15人[11]

教育方針編集

教育目標

すべての市民が進んで知性、感性を磨き、道徳心や体力を高め、人間性を豊にし、国際社会の平和と発展に貢献することを願い、次に掲げる市民の育成を教育目標とする。

互いの生命と人格を尊重し、思いやりと規範意識のある市民
社会の一員として、勤労と責任を重んじ、広く社会に貢献しようとする市民
自ら学び考え行動する、個性と責任を重んじ、広く社会に貢献しようとする市民
伝統と文化を尊重し、自然と郷土を愛するとともに、環境の保全に寄与する市民[12]
児童数と教員数[13]
年度 児童総数 1年生 2年生 3年生 4年生 5年生 6年生 教員数 職員数
平成23年 616人 101人 103人 102人 104人 104人 102人 36人 0人
平成24年 637人 115人 103人 105人 102人 104人 108人 39人 0人
平成25年 639人 101人 119人 105人 108人 104人 102人 41人 0人
平成26年 636人 95人 104人 119人 106人 108人 104人 39人 0人
平成27年 651人 121人 94人 102人 119人 110人 105人 41人 1人
平成28年 625人 99人 116人 90人 100人 114人 106人 39人 1人
平成29年 632人 112人 101人 114人 90人 100人 115人 36人 1人
平成30年 626人 107人 107人 101人 114人 96人 101人 36人 1人

通学区域編集

田無小学校の通学区域は、2015年(平成27年)3月31日までは下記である[14]
住所別通学区域
田無一丁目 - 六丁目 田無七丁目 西原町一丁目 緑町一丁目
全域 1番、2番、15番、16番、19番、20番 全域 2 - 8番


進学先中学校編集

住所別通学区域
田無第一中学校 田無第二中学校 田無第三中学校 田無第四中学校
田無四丁目、六丁目 田無一丁目、三丁目
緑町一丁目1番、二丁目3 - 21番、三丁目
ひばりが丘三丁目2番130 - 162
北原町一丁目 - 三丁目
谷戸一丁目、二丁目1番(20、21、75、77、78除く)
三丁目
田無五丁目、七丁目
西原一丁目 - 五丁目
緑町一丁目2 - 8番
二丁目1番、2番
芝久保町四丁目、五丁目
田無二丁目
南町一丁目 - 五丁目
向台町一丁目 - 四丁目
新町三丁目 - 四丁目
東京都の卒業者の進路状況
卒業年度 卒業者合計 都内中学校合計 公立中学校 国立中学校 私立中学校 都外中学校合計 その他
平成23年 94,787人 93,067人 76,980人 432人 15,655人 1,558人 162人
平成24年 95,149人 93,465人 77,586人 377人 15,502人 1,540人 144人
平成25年 94,570人 92,815人 77,399人 417人 14,999人 1,608人 147人
平成26年 93,868人 92,273人 76,492人 395人 15,386人 1,449人 146人
平成27年 93,986人 92,461人 76,078人 446人 15,937人 1,370人 155人
平成28年 91,979人 90,465人 74,400人 439人 15,626人 1,384人 130人
平成29年 90,297人 88,781人 72,095人 413人 16,273人 1,393人 123人
100% 98.3% 79.8% 0.5% 18.0% 1.5% 0.1%

その他編集

「校庭から銃砲など、旧日本軍のものか」 - 2018年7月末-8月初め、管理棟移設工事のため校庭を掘削した際、深さ2mから銃砲や刀など約2900点が見つかり、自衛隊が手投げ弾や銃砲弾を回収した。市教育委員会によると、1925年(大正14年)、現在地に校舎がつくられたとき、近くには軍用機メーカー「中島飛行機」の工場や軍関連工場があったという。戦後に埋められた可能性があり、いつ誰が埋めたかわ不明で、なぜ小学校の庭に埋めたのか調べる[15]

「旧日本軍の訓練用」証言、市教育委員会が調査 - 校庭から発見された大量の武器類は、鉄砲約1400点、刀剣類約1200点、手投げ弾8個、銃砲弾302個など計約2900点、銃砲類と手投げ弾は訓練用で、銃などは傷みが激しい。市教育委員会は周辺住民らへの聞き取り調査を進め、専門家への鑑定依頼などの調査を行っている[16][17]

学区/校区内の主な施設編集

神社・寺
官公施設
教育施設
医療施設
主な商業施設
  • アスタビルアスタ専門店街(田無町二丁目1番)
  • 西友(田無町二丁目1番)
  • ひばりヶ丘パルコ(ひばりが丘一丁目1番)
  • いなげや(芝久保町一丁目4番)
主な企業

交通編集

鉄道
路線バス
  • 西武バス - 田無駅、境03、境04、境07系統(武蔵境駅行)、境04、田43系統(ひばりヶ丘駅・団地経由行)、田44、境07系統(ひばりヶ丘駅・南沢五丁目経由行)、田41系統(保谷駅南口・天神山行)、境03、境05、田42系統(ひばりヶ丘駅・谷戸経由行)

関係者編集

出身者

ギャラリー編集

脚注編集

  1. ^ 「西東京市立田無小学校」田無小の歴史、刑部真琴と学制発布。[1]
  2. ^ 著者・刑部真琴『平算括孤解法童子問』出版者・金港堂、出版日・明治9年8月1日。[2]
  3. ^ 著者・刑部真琴『分数実物教授』出版者・金港堂、出版日・明治21年11月24日。[3]
  4. ^ 著者・刑部真琴『手工遊戯、前編』出版者・真英堂、出版日・明治21年12月21日。[4]
  5. ^ 「東京都教育委員会」平成26年度東京都公立学校一覧、参考資料。[5]
  6. ^ 「西東京市立田無小学校」学校紹介、沿革、更新日・2011年11月22日。[6]
  7. ^ 著者・東京府総務部地方課編『市町村概観・昭和13年』出版者・東京府総務部地方課、発行日・昭和13年10月30日、758頁、田無町、教育。[7]
  8. ^ 「西東京市立田無小学校」田無小の歴史、大正時代の田無小。[8]
  9. ^ 著者兼発行者・高橋源一郎編『武蔵野歴史地理・第三冊』東京西南部、南武蔵野地方、清戸村山地方、発行所・武蔵野歴史地理学会、発行・昭和5年9月18日。[9]
  10. ^ 著者・東京地方課改良協会編『東京府市区町村便覧』出版者・東京府地方課内、東京地方課改良教会、昭和14年8月、田無町、135頁。[10]
  11. ^ 著者・東京府総務部地方課編『市町村概観・昭和13年』出版者・東京府総務部地方課、発行日・昭和13年10月30日、758頁、田無町、教育。[11]
  12. ^ 「西東京市教育委員会」教育目標、平成26年度から。[12]
  13. ^ 東京都教育委員会「平成30年度 公立学校統計調査報告書(学校調査編)」統計表、2018年10月25日、2018年12月12日閲覧
  14. ^ 「西東京市教育委員会」子育て、市立小・中学校通学区域。[13]
  15. ^ 朝日新聞 DIGITAL『校庭から銃や刀が大量出土、旧日本軍のものか 西東京市』2018年8月6日、2018年8月6日閲覧。
  16. ^ 朝日新聞『校庭の武器、埋めたのはだれ?なぜ?』西東京・田無小の2900点「旧日本軍の訓練用」証言も、市教委が調査、2018年11月28日、2018年11月28日閲覧。
  17. ^ 朝日新聞 DIGITAL 『銃や手投げ弾3000点、都内の校庭から なぜ?誰が?』2018年11月29日、2018年11月29日閲覧。

関連項目編集

外部リンク編集