許 世賢(シュー・シーシェン、きょ せけん、1908年4月1日 – 1983年6月30日)は台湾政治家医師である。台湾で初めて博士号を取得した女性であり[1]、台湾で最初の女性市長、女性市議会議員、女性高等学校長でもある[2]。また、日本で3人目の女性医師である。

許世賢
嘉義市長
任期
1968年3月1日 – 1972年10月31日
任期
1982年3月1日 – 1983年6月30日
立法委員
任期
1973年2月1日 – 1981年1月31日
選挙区台北市第四選挙区
個人情報
生誕 (1908-04-01) 1908年4月1日
台湾台南市
死没1983年6月30日(1983-06-30)(75歳没)
子供張文英
張博雅
出身校九州大学
東京女子医科大学
職業政治家
学者

経歴

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1908年4月1日に台南庁(現台南市)で生まれた。父親の許煥章は、清王朝の学者を務めた[3]日本統治時代の台湾に生まれた世賢は、幼い頃から植民地主義に反対した[2]

台南州立高等女学校(現国立台南女子高級中学)を経て、東京女子医科大学に入学した。学生時代は、天皇誕生日を認めることを拒否し、泉漳語を話す人を擁護した。卒業後、台湾に戻り、台南州立台南病院に就職した。

1933年に嘉義市出身の張進通と結婚した。夫婦は九州帝国大学(現九州大学)医学部に進学し、産婦人科学を専門とした。1939年に、医学の博士号を取得し、台湾で初めて博士号を取得した女性となり、「鴛鴦医師」と呼ばれた。また、日本で3人目の女性医師でもあった。1940年、夫と共に嘉義市に病院を設立した[2]

1945年に中国国民党に加わり、後に台湾省議会に選出されたが、汚職問題をめぐって党から3回撤退しようとした。1957年4月に無所属候補者として台湾省議会に再選された。中国地方自治研究会に参加したため、1958年に国民党から正式に追放された。議員として与党に厳しい質問をすることで知られるようになり、台湾生まれの6人の州議会議員の1人であり、五龍一鳳と呼ばれた[2]

1960年、雷震と協力して中国民主党を設立したが、雷震はその後まもなく逮捕された。世賢は1961年1月に党外運動に参加し、無所属候補者のキャンペーンチームを調整した[2]

1968年に嘉義市長に選出され、台湾で最初の女性市長となった。市長任期が1972年に終わりまでに、国民党は許世賢が2期目に出馬することを年齢制限で違法にした。代わりに、立法院の議席を目指し、1972年12月の選挙で投票総数が最も多かった。1981年に辞任し、年齢制限が解除されたため、2度目の嘉義市長キャンペーンを開始した。1983年6月30日に嘉義市長在任中に亡くなった[2]

娘の張文英張博雅は、後に嘉義市長を務めた[2]

2014年、許世賢を偲ぶ博物館が開業した[4]

出典

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  1. ^ Shih, Hsiu-chuan (28 November 2005). “Chiayi City could be ready”. Taipei Times: p. 3. http://www.taipeitimes.com/News/taiwan/archives/2005/11/28/2003282067 24 June 2018閲覧。 
  2. ^ a b c d e f g Han Cheung (24 June 2018). “Taiwan in Time: A phoenix among dragons”. Taipei Times. http://www.taipeitimes.com/News/feat/archives/2018/06/24/2003695432 24 June 2018閲覧。 
  3. ^ 臺灣人士鑑. 興南新聞社. (1943) 
  4. ^ Yu, Hsueh-lan; Chung, Jake (6 January 2014). “Museum honoring former Chiayi mayor opens doors”. Taipei Times. http://www.taipeitimes.com/News/taiwan/archives/2014/01/06/2003580651 23 April 2017閲覧。