豊竹 時太夫(とよたけ ときたゆう)は、義太夫節の太夫。

初代

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後の2代目豊竹此太夫

2代目

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初代の高弟の弟子で安永2年(1773年)に死去したという。通名は「かさ五」というが理由は不明。

3代目

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1763年に2代目に入門し入太夫、2代目没後3代目を襲名。寛政11年(1799年9月22日に死去、通名は「銭屋源七」。

4代目

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後の4代目豊竹此太夫

5代目

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後の5代目豊竹此太夫

6代目

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天保元年(1830年1月1日 - 明治38年(1905年8月17日。本名は田村竹松。[1]

摂津国灘の生まれ。はじめ三味線方4代目豊澤広助の門弟で広右衛門から文駄。1871年に太夫に転身し5代目竹本春太夫の門下で6代目時太夫を襲名。 何者かに美声人気を妬まれ水銀を飲まされ美声を失った。晩年は仏法斎松朝を名乗った。実子は鶴澤友造

7代目

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文久2年(1862年2月18日 - 。本名は松本政次郎。[2]

摂津伊丹の生まれ。1877年鶴澤寛治の門下で寛八、1899年2代目竹本長尾太夫で高尾太夫、1903年に7代目時太夫を襲名。

大声の美声で知られた。没年未詳だが、大正頃まで存命だったという。

脚注

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  1. ^ 豊竹 時太夫(6代目)”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. コトバンク. 2016年1月12日閲覧。
  2. ^ 豊竹 時太夫(7代目)”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. コトバンク. 2016年1月12日閲覧。