趙 国安(ちょう こくあん、生没年不詳)は、モンゴル帝国に仕えた武将で、チャガタイ家に仕えて陝西四川方面の進出に大きな功績を残したアンチュルの息子の一人。モンゴル名はテムルで、『元史』では帖木児(tièmùér)と漢字表記される。

概要

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趙国安の前半生については不明な点が多いが、兄の趙国宝が亡くなった時、その息子の趙世栄がまだ幼かったために趙国宝の地位を継承して蒙古漢軍元帥・兼文州吐蕃万戸府ダルガチとなった。 さらに兄の辺境平定の功績を加味して金虎符を与えられ、昭勇台将軍とされた。

至元15年(1278年)、安西王マンガラシリギの乱討伐のため北上した隙を狙って六盤山で挙兵した南平王トゥクルクの反乱を鎮圧する功績を挙げた。その後、趙世栄が十分に成長したため、趙国安は自らの地位を譲ることをクビライに請うた。そこでクビライは「常人は地位を巡って争うというのに、汝は自ら地位を譲るという。地位を巡って争う世間の悪風を改めうる殊勝な態度である」と述べ、六盤山でのトゥクルク討伐の功績を加味して無官となった趙国安を昭毅大将軍・招討使に任じた。

以後、趙国安は拠点を移して重慶を鎮撫したが、間もなく亡くなった。趙国安の子係についての記録は残っていない[1][2]

オングト部アンチュル家

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脚注

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  1. ^ 『元史』巻121列伝8按竺邇伝,「[按竺邇]子十人、徹理・国宝最知名。……初、国宝将卒、以世栄幼、命弟国安襲其職。国安既襲蒙古漢軍元帥、兼文州吐蕃万戸府達魯花赤、後以其兄国宝安辺功、賜金虎符、進昭勇大将軍。十五年、討叛王吐魯於六盤、獲之、請解職授世栄。帝曰『人争而汝譲、可以敦薄俗』。録其六盤功、進昭毅大将軍・招討使。世栄、襲懐遠大将軍・蒙古漢軍元帥、兼文州吐蕃万戸府達魯花赤。後以功進安遠大将軍・吐蕃宣慰使議事都元帥、佩三珠虎符。世延、中書平章政事」
  2. ^ 『元史』巻132列伝19歩魯合荅伝,「初、按主奴三子長車里、次黒子、次帖木児。黒子別賜金符、為奥魯元帥、兼文州吐蕃達魯花赤、卒。其子那懐幼、以帖木児攝其官。那懐長、解職授之、遂改授帖木児随路抜都万戸、後移鎮重慶、卒」

参考文献

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  • 松田孝一「チャガタイ家千戸の陝西南部駐屯軍団 (上)」『国際研究論叢: 大阪国際大学紀要』第7/8合併号、1992年
  • 松田孝一「チャガタイ家千戸の陝西南部駐屯軍団 (下)」『国際研究論叢: 大阪国際大学紀要』第7/8合併号、1993年
  • 元史』巻121列伝8
  • 元史』巻132列伝19