トゥクルク
トゥクルク(モンゴル語: Tuqluq、中国語: 禿魯、生没年不詳)は、チンギス・カンの孫のグユクの孫で、モンゴル帝国の皇族。『元史』などの漢文史料では南平王禿魯(tūlŭ)・都魯(tūlŭ)・宗王脱忽魯(tuōhūlŭ)・土魯(tŭlŭ)・叛王吐魯(tŭlŭ)、『五族譜』などのペルシア語史料ではتوقلوق(Tūqlūq)と記される。
概要
編集『元史』宗室世系表ではグユクの末子のホク(禾忽)大王の息子であるとするが、ホクとトゥクルクの活躍年代は非常に近く、親子関係にあるというのは疑わしい。モンゴル帝国の系譜集である『五族譜』ではホクの兄のホージャ・オグルにتوقلوق(Tūqlūq)という息子がいたと記されており、これこそが『元史』の南平王トゥクルク(禿魯)に相当する人物であると考えられている。
トゥクルクが史料上に始めて現れるのは中統元年(1260年)のことで、この時カイドゥ、ジビク・テムルといった他のオゴデイ家の諸王とともにクビライより銀などを与えられている[1]。中統元年(1260年)はクビライとアリクブケの間で帝位を巡って帝位継承戦争が始まった年であり、この賜与はトゥクルクらオゴデイ家の諸王をクビライ派に立たせるため懐柔する意図があったと見られている[2]。
至元4年(1267年)、トゥクルクは雲南への「南征」のため、潞州を中心とするクチュ・ウルスで遊牧した。この時トゥクルクは夏は潞州の山の上に暑さを避けて夏営地を構え、冬は暖を取るため太行山脈の南で冬営地をかまえたため、附近の村落の農作物を踏み荒らしたという[3]。
至元9年(1272年)にはセチェン・カアン(クビライ)の命によって西平王アウルクチやアルグ・テムルらとともに雲南北部の建都攻略に参戦した。この後、トゥクルクは銀印や5つの金符・銀符を与えられている[4]。至元11年(1273年)にはサイイド・アジャッルが雲南に派遣されることで権力がそがれることを警戒し、軍勢を備えている[5]。至元12年(1274年)には同僚のアルグ・テムルはクビライの下に帰還したがトゥクルクはまだ雲南に留まっていた[6]。しかし、この後何らかの事情でトゥクルクは安西王マンガラの統治圏(安西王国)に位置する六盤山方面に移動した。
至元14年(1276年)の冬、安西王マンガラがシリギの乱に対応するため北方へ出陣している最中、トゥクルクは六盤山で叛乱を起こした。安西王府はベステイ(別速台)を主将に、オングト部の汪惟正を副将として叛乱鎮圧軍を派遣し、これに商挺や李忽蘭吉の率いる延安の軍が合流した[7][8]。ベステイは軍事に習熟していなかったため実質的な軍の指揮は汪惟正が取り、汪惟正はトゥクルク軍と相対すると1里離れた場所で全軍に馬を下り、弓を構えるよう命じた。これに対しトゥクルクは百の騎兵を突撃させたが、汪惟正はなかなか矢を放つよう命じず、トゥクルク軍が直前まで来て始めて「矢が敵兵に必ず当たると見たら、矢を射よ」と命じた。雨の如く降る矢によって突撃した騎兵の三分の一は負傷し、トゥクルク軍は敗走した。トゥクルクは3つの山と蕭河を越えて逃げたが、至元15年(1277年)中にはオングト部アンチュル家のテムル(趙国安)の手によって武川で捕虜となった[9][10]。 [11][12]
グユク王家
編集- グユク・カン(Güyük Qan >貴由/guìyóu,گيوك خان/Guyūk khān)
- ホージャ・オグル(Khwaja Oγur >忽察/hūchá,خواجه اغول/Khwaja Āghūl)
- トクメ(Tükme >禿苦滅/tūkǔmiè,توکمه/Tūkme)
- ブスジュ・エブゲン(Busju Ebügen >بوسجو ابوکانBūsjū Ābūkān)
- 南平王トゥクルク(Tuqluq >禿魯/tūlŭ,توقلوق/Tūqlūq)
- イルゲンツェン王(Irgendzen >亦児監蔵/yìérjiāncáng)
- オルジェイ・エブゲン王(Ölǰei Ebügen >完者也不干/wánzhĕyĕbùgān)
- ナク太子(Naqu >脳忽/nǎohū,ناقو/Nāqū)
- チャバト(Čabat >چباتChabāt)
- ホク大王(Hoqu >禾忽/héhū,هوقو/Hūqū)
- ホージャ・オグル(Khwaja Oγur >忽察/hūchá,خواجه اغول/Khwaja Āghūl)
脚注
編集- ^ 『元史』巻4世祖本紀1,「[中統元年十二月]乙巳……賜親王穆哥銀二千五百両……海都銀八百三十三両、文綺五十匹、金素半之……只必帖木児銀八百三十三両……都魯・牙忽銀八百三十三両、特賜綿五十斤……自是歳以為常」
- ^ 松田1996,52頁
- ^ 『秋澗先生大全集』巻51,大元国故衛輝路監郡塔必公神道碑銘并序「明年、諸王禿忽魯南征、道出淇右……営帳千屯分牧共西、夏則避炎潞頂、冬則迎煥山、踐食村落……」
- ^ 『元史』巻7世祖本紀4,「[至元九年春正月]丁丑、勅皇子西平王奥魯赤・阿魯帖木児・禿哥及南平王禿魯所部与四川行省也速帯児部下、並忙古帯等十八族・欲速公弄等土番軍、同征建都。庚辰……給西平王奥魯赤馬価弓矢、賜南平王禿魯銀印及金銀符各五」
- ^ 『元史』巻7世祖本紀4,「[至元]十一年……時宗王脱忽魯方鎮雲南、惑於左右之言、以賽典赤至、必奪其権、具甲兵以為備……」
- ^ 『元史』巻8世祖本紀5,「[至元十二年春正月]己亥……命土魯至雲南、趣阿魯帖木児入覲」
- ^ 『元史』巻159列伝46商挺伝,「[至元]十四年……未幾、禿魯叛、以延安兵応敵、果獲其力」
- ^ 『元史』巻162列伝49李忽蘭吉伝,「[至元]十五年、禿魯叛於六盤山、忽蘭吉以延安路軍、会別速台・趙炳及総帥府兵於六盤、敗禿魯於武川、俘其孥、還……」
- ^ 『元史』巻121列伝8按竺邇伝,「[至元]十五年、討叛王吐魯於六盤、獲之、請解職授世栄」
- ^ 『元史』巻155列伝42汪惟正伝,「[至元]十四年冬、皇子北伐、而藩王土魯叛於六盤、王相府命別速台領兵進討、惟正為副。……土魯先拠西山、惟正分安西兵為左右翼、鞏兵独居中、去土魯一里許、皆下馬、手弓。土魯遣百騎突陳、惟正令引満毋発、将及、又命曰『視必中而発』。於是矢下如雨、突騎中者三之一、餘尽馳還、土魯軍遂走。惟正麾兵逐之、三逾山、至蕭河、擒叛将燕只哥、復進兵、土魯亦就擒」
- ^ 松田1996,55-56頁
- ^ 村岡1992,30頁
参考文献
編集- 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
- 松田孝一「オゴデイ諸子ウルスの系譜と継承」 『ペルシア語古写本史料精査によるモンゴル帝国の諸王家に関する総合的研究』、1996年
- 村岡倫「オゴデイ=ウルスの分立」『東洋史苑』39号、1992年
- 『新元史』巻112列伝9