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軍忠状(ぐんちゅうじょう)とは、中世日本において、参陣や軍功などを証する書類。

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概要編集

中世日本において武士同士の主従関係は、御恩と奉公により成り立っており、主人の軍事行動に当たり家来が手勢を引き連れ参陣し、または戦場において軍功を挙げた場合(奉公)、主人はこれに対し、その「参陣」「軍功」が単なる私闘・私戦ではなく正当性のある「公戦」におけるものだと認定し、本領を安堵したり、新領地を恩賞として与えたり(新恩給与)すべきものとされていた。そのため、後日の恩賞のため、参陣や軍功の事実を証する必要が生じ、かかる文書が主人名にて発給されることになった。

こうした多くの軍忠状が作成されたのは、戦いが武士の自主性に任せられていたことを物語っているが(後述書)、その内容から戦闘の規模が小さく、死傷者が少ないことが判明している[1]。(ただし、軍忠状の内容は基本的には戦勝側の内訳であり、記入対象は士分以上の者のみである[2]。) 14世紀後半となると、各地の武士の手元に残る軍忠状が著しく少なくなり、守護を中心とした新たな秩序が形成される方向が見えてくる[3]

鎌倉~南北朝期~室町期においては軍忠状が合戦における負傷率などの研究の中心となるが、鎌倉期と室町期の資料はほとんどなく、戦国時代に入ると南北朝期に引き続いて軍忠状が再び現れる他に、別の形の「戦闘報告書」の類が現れ、戦闘報告書には統一的な名称はないが、「手負注文」「討死手負注文」「合戦注文」「太刀打注文」「合戦太刀打注文」など様々な名称がある。[4][5]

トマス・D・コンランと鈴木眞哉がそれらを用いての合戦の負傷原因などの調査を行っており、統計化されている。以下にそれらを示す。

「トマス・D・コンラン 南北朝期合戦の一考察 戦死傷からみた特質」()内は曖昧な数字[6]

軍忠状に見える人数と死傷者数

西暦1333年~1394年 人数は8634人(2791人) 殺害された者は1173人(1881人) 負傷者は1250人(130人)

負傷者数

矢傷523人、73% 原因不明の切傷178人、25% 槍傷15人、2% 石傷5人、1%

死傷した馬の数

原因不明の切傷による殺害8頭、原因不明の切傷による負傷7頭、矢による殺害3頭、矢による負傷12頭、槍による殺害1頭、槍による負傷0頭


「鈴木眞哉 刀と首取り」[4]

西暦1333年~1457年(その多くは1379~80年で15世紀のはわずか1例しかない) 主に南北朝期

戦死者44人 負傷者583人

矢傷または射傷480人、86.6% 切傷46人、8.3% 石傷または礫傷15人、2.7% 槍傷または突傷6人、1.1% 矢傷および切傷4人 矢傷および槍傷1人 長柄傷1人 矢傷および石傷1人


西暦1467年~1637年 戦国期

戦死者190人 負傷者1497人

矢傷・射傷604人、41.3% 鉄砲傷286人、19.6% 槍傷・突傷261人、17.9% 石傷・礫傷150人、10.3% 刀傷・太刀傷56人、3.8% 切傷33人2.3% 薙刀傷2人 その他の殻竿などの武器による傷3人 矢傷・射傷および刀傷1人 矢傷・射傷および切傷4人 鉄砲傷および切傷1人 槍傷および刀傷11人


「鈴木眞哉 戦闘報告書が語る日本中世の戦場」[5]

西暦1333年~1387年 南北朝期

戦死者54人 負傷者606人

矢傷・射傷500人、86.08% 切傷56人、9.64% 石傷・礫傷15人、2.58% 槍傷・突傷9人、1.55% その他1人、0.17%


西暦1467年~1561年 戦国前期の鉄砲による死傷者が出てこない時期

戦死者60人 負傷者747人

矢傷・射傷457人、61.18% 槍傷・突傷140人、18.74% 石傷・礫傷121人、16.20% 切傷24人、3.21% 刀傷・太刀傷5人、0.67%


西暦1563年~1638年 戦国後期

戦死者239人 死傷者825人

鉄砲傷・手火矢傷373人、45.2% 槍傷・突傷170人、20.61% 矢傷143人、17.33% 石傷・礫傷74人、8.97% 刀傷・太刀傷53人、6.42% 薙刀傷7人、0.85% 切傷3人、0.36% その他2人、0.24%


西暦1467~1638年 戦国全期

死傷者1572人

矢傷・射傷600人、38.1% 鉄砲傷・手火矢傷373人、23.73% 槍傷・突傷310人、19.73% 石傷・礫傷195人、12.40% 刀傷・太刀傷58人、3.69% 切傷27人、1.72% 薙刀傷7人、0.45% その他2人、0.13%


トマス・D・コンランと鈴木眞哉の南北朝期の統計を比べると共に矢傷が多いが、トマス・D・コンランの統計には刀や薙刀などが原因と考えられる原因不明の切り傷が一定の割合で存在し、鈴木眞哉の統計ではそれがいたって少ない事と、コンランの統計では戦死者も多いが、鈴木の統計では戦死者が少ない事がわかる。なお、鈴木自身も認めているように南北朝期のサンプル数ではコンランの方が多いが鈴木は彼の視点で史料を選び、独自にカウントしたらしい。[5]


コンランは弓歩兵と打物騎兵が南北朝期における最も有利な軍事組織であり、大太刀が当時は最もリーチが長く、頑丈なために最も有効な白兵武器であり、大太刀と薙刀はより広い円形範囲で打撃・斬撃・刺突ができるために槍より利用価値が高く、弓の殺害効率は悪い事を主張している。[6]

鈴木は南北朝期から戦国期を通して日本人の戦は遠戦志向であった事を主張し、負傷者数の割合から日本刀の実用性に対して疑問を呈し、弓矢や鉄砲などの遠隔兵器も殺害効率は高い事、矢傷で動けなくなったところを槍や刀でとどめを刺されるケースも少なくなかった事、首取りには主に脇差や短刀が使われたが激戦の中で大太刀や薙刀で首を飛ばすことも不可能ではない事、日本刀は主に首取りの道具であった説を主張している。[4][5]


2人とも日本人の中近世の合戦は矢傷の多さから遠戦志向であったことを主張している点では共通している[6][5][4]が、近藤好和と樋口隆晴によるそれらへの批判も加えられている。

近藤いわく、軍忠状などはあくまで負傷者の受け身の資料であり、戦死の場合はおおむね死因が不明で、何よりも攻撃側のことが何もわからず、矢傷が多くとも歩兵が射たのか騎兵が射たのかわからないために一等史料ではあるが、その不完全性について言及している。[7]

鈴木はその批判に対し、確かに合戦の全てを明らかにはできないが、戦死者の割合が低いことから大した問題ではないという反論を近藤に対し、行っている。[5]

一方、樋口隆晴は南北朝期の合戦において矢傷が多くとも、敵を撃退する効果が高いのは太刀や薙刀や大太刀などを主武器とした打物騎兵の突撃であるという旨の主張をし、鈴木の主張するような遠戦志向が合戦の全てではなく、南北朝期最強の白兵戦武器はリーチが長く、多彩な攻撃を繰り出せる薙刀だったという主張をしている。[8]また、樋口は南北朝期には少数ではあるが弓射騎兵はまだまだ存在し、打物騎兵、弓歩兵、打物歩兵を加えた、武器によって異なる戦技と特質を持つ将兵の連携が必要となり、現代的視点から見れば「諸兵科共同」で戦うようになり、それを可能としたのが様々な共同体の戦争への参加だという主張もしている。[9]

文書の様式は、まず文書先頭に自分の名前を書き、以下に軍忠の具体的事実を書くことを宣言する(「誰々申軍忠事」という文言になることが多い)。次に軍忠の具体的事実、例えば合戦への従軍・敵に与えた損害・自軍の損害といったことを書く。さらに同所で戦った武将の名前を挙げて、自身の軍忠の証明とする(具体的に名前を出さない場合もあり)。そして最後に「軍忠認定の証判を賜り、後日(の恩賞の)証拠としたい」といった旨の文言(文言は各文書で微妙に異なる)を記し、「以此旨可有御披露候」と文章を結ぶ。宛所は「進上 御奉行所」と書かれることが殆どである。 こうして軍勢の統括者に提出された軍忠状は、内容に問題が無ければ、文書末尾(先頭の場合もあり)にその統括者の証判(花押)と文書を一読し承諾した旨(「一見了」「承了」「無相違」などの文言)が書かれて効力が発生する。

これとは異なり、主人側にて書類を起案・交付するケースもある。

脚注編集

  1. ^ 五味文彦 『武士の時代』 岩波ジュニア新書 2003年 p.139.
  2. ^ 笹間良彦 『図説 日本戦陣作法辞典』柏木書房、280頁。
  3. ^ 五味文彦 『武士の時代』 p.140.
  4. ^ a b c d 刀と首取り. 平凡社新書. 
  5. ^ a b c d e f 戦闘報告書が語る日本中世の戦場. 洋泉社. 
  6. ^ a b c 日本社会の史的構造 古代・中世. 思文閣出版. 
  7. ^ 騎兵と歩兵の中世史. 吉川弘文館. 
  8. ^ 歴史群像 武器と甲冑. 学研. 
  9. ^ 歴史REAL 足利将軍15代. 洋泉社MOOK. 

参考文献編集

関連項目編集