転がる香港に苔は生えない

転がる香港に苔は生えない』(ころがるほんこんにこけははえない)は、星野博美の著書[1]

転がる香港に苔は生えない
作者 星野博美
日本の旗 日本
言語 日本語
ジャンル ノンフィクション
発表形態 書き下ろし
刊本情報
出版元 情報センター出版局
出版年月日 2000年4月
id ISBN 4-7958-3222-6
受賞
第32回大宅壮一ノンフィクション賞
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旅行記『謝々! チャイニーズ』に次ぐ中国関連著作の2作目である[注 1]1997年に中国に返還された香港に2年住み[注 2]、そこに暮らす人々を描いた。第32回大宅壮一ノンフィクション賞受賞作。

おもな登場人物 編集

大学3年生の1986年に、1年間香港中文大学へ交換留学。この時から、返還日である1997年7月1日に、香港にいることだけは決めていた。
長期滞在のビザのため、語学留学の形にし、1996年8月に香港へ。1996年12月から1998年10月まで、深水埗鴨寮街中国語版198号唐三楼B房に入居。
シェリー(その夫はレイモンド)
深水埗の魚屋の娘。中文大学時代の同僚。私が9年間連絡をとっていた唯一の友人。1985-6年に慶応大学に交換留学。このとき独居の味を覚え、家族との同居がいやになった。今はソーシャルワーカー。返還バブルにうまく乗って大埔駅の27階に夫婦2人暮らし。レイモンドはシェリーの一年先輩で、社会福利署の役人。
「香港って老後の保障が何もないでしょ?働けなくなったら、自分を守ってくれるものは不動産しかないのよ。」 — 「旧友との再開」から
阿強(その妻は梅芳)
九龍城寨育ち。中文大学の同級生。カナダで5年就労後香港に帰った。カナダでいろんな仕事をしたが、カナダよりも香港にいたほうがよかったと後悔している。現在は日本の工業用機械部品を東南アジア各国で販売。観塘の公共団地で母親と同居。
「俺はカナダには行ってみたいから行った。政治的意味なんか何もない。第一、なんで俺が共産党を恐れなきゃならない?俺には共産党を恐れなきゃならない理由なんて一つもない。全然恐くないね」 (中略)・・・そんなことを聞いた覚えはない。挑発に乗ってしまった彼は、結局最後に本音を洩らしてしまった。 — 「中文大学の同窓会」から
文道
15歳まで台北で育つ。香港ではじめて言論の自由を体験。中文大学哲学科大学院3年生。家族はアメリカへ移民。本人は親と暮らすのはもうこりごり。「新報 (香港)中国語版」「明報」などの新聞のコラムニストその他、仕事が多く、勉強する暇がない。
「香港人のいう『自由』は、経済活動が自由にできて、好きな所に行けて、食卓で好き勝手に意見をいえること。投票権がないとか公に意見がいえないとか、そんなことは自分の自由とは関係ないんだ。」 — 「世界市民」から
ルビー
荃灣中国語版の団地育ち。紅磡茶餐庁で出前を担当。これまで大工、塗装、内装工事、トラック運転手をした。住宅の工夫について世話になる。テレビも元々は彼女のもの。
ルビーに相談する。「中古テレビが買いたいけど、どこで買ったらいいだろう?」「あんたのアパートの下にいくらでも売ってるだろう。でもあんな所で買うのは金を捨てるようなもんだ。あれはもともとゴミなんだから・・・あたしが何とかしてみよう。心当たりがある」 — 「人脈という魔法」から
利香(その夫は阿波)
学校で知り合った日本人。阿波が日本の中央大学に留学に来ていた1989-1995年に知り合い、帰国直前に結婚。1996年に香港へ。将軍澳で阿波の家族と同居。会社や学校に行くときは、黒のシャツに黒のロングスカートというキャリアウーマン風。阿波は日系企業勤務。2人で返還翌月に粉嶺にマンションを買ったが、返還バブルの崩壊で値崩れして後悔。
「東京って、金はなくても質の高い生活っていうものが成立したよね。金がないことを卑屈に感じることもなかった。(中略)香港じゃ、貧乏はただの貧乏で、精神なんて関係ないもの」 貧乏人に理屈をこねる資格はない - 私が香港で感じた違和感はそれだった。 — 「清貧の挫折」から
劉さん(その娘は肖連)
広東省出身。先に香港に渡航していた20歳年上の尹(ゆん)さんと25歳で結婚。しかし一年のほとんどは香港と広東に別居で、夫のことはよく知らなかった。15年後に夫は香港で死去。劉さん母子に転居許可が出て、香港に来たのはその2年後だった。清掃業。4畳半で母子3人暮らし。肖連は読書を好み無口な色白娘。
「香港は大陸よりいいよ。住む所は狭いし生活は緊張してるけど、いろんな物があるし、やっぱりいい所だと思う。」 — 「移民の街の『新移民』」から

著者による香港評から 編集

かくして何の後ろだてもコネもない一外国人の私は、500元の手付金を払い、パスポートを見せるだけで即日部屋を借りることができたのである。なんて異邦人に対して寛容な街だろう。 — 「奇妙な住所」から
安くていい物を消費者のみなさんに提供する。そんなめでたい話はこの街では通用しない。安い物は悪くてかまわない。なぜなら安い物を買う人間には、安い物を買う以外に選択肢がないからである。金がない人間には正当な扱いを受ける資格はない。悔しかったら、金を出せばいいだけなのだ。 — 「清貧の挫折」から
私が友達の忠告を無視してアパート探しを自力で行ったのは、自分でどこまでできるか試してみたいという気持ちがあったからだ。自分がどのように手玉にとられ、どのような屁理屈でねじ伏せられ、それをどこで食い止めることができるか。それはこの街のシステムに対する自分なりの、ささやかな抵抗だった。 — 「人脈という魔法」から
どこかがつぶれる。誰かが倒れる。すると他の誰かにチャンスが回る。彼らは、その時を見逃さない。こういう時こそ稼いでやる。そんな筋金が、彼らには入っている。香港は一体どうなるんだろう、という不安は完全に杞憂だったことを、私はこの時確信した。 — 「鶏のない正月」から

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 写真集である『華南体感』をのぞいて数えた。
  2. ^ なお『ホンコンフラワー』は、この滞在の間の写真集。ブックカバーの2人組写真はそこからとられた。

出典 編集

  1. ^ 星野博美『転がる香港に苔は生えない』情報センター出版局、2000年4月。ISBN 4-7958-3222-6 

外部リンク 編集