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遠州横須賀三熊野神社大祭

遠州横須賀三熊野神社大祭(えんしゅうよこすかみくまのじんじゃたいさい)は、静岡県掛川市横須賀で4月第1週に行われる祭礼江戸天下祭の古い形を残している。

概要編集

横須賀城下の三熊野神社の祭礼で、4月の第一金・土・日曜日に行われている。

横須賀の祭り山車(禰里)は、「一本柱万度型」と言われる江戸屋台の古い伝統を残している。また、二輪屋台祭囃子として有名な「三社祭礼囃子」は、静岡県の無形民俗文化財第一号に指定された。2019年現在、「三熊野神社大祭の祢里(ねり)行事」として、国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に指定されている。

三熊野神社は子授けの神として古くから崇敬されており、子授けの神事も行われている。

歴史編集

慶安頃、遠州横須賀藩松平重忠の家臣が、江戸の天下祭りの様式に興味を示し、屋台の様式と囃子を持ち込んだものと伝えられる。  江戸時代の1625年頃には既に踊りを主体とした祭りが存在していたようだが、現在の様式の原型が作られたのは、1636年頃、当時江戸幕府老中職にあった第4代横須賀城主 松平 重忠公が、当時の江戸天下祭(神田・山王両祭礼)の祭り文化を横須賀の地へと伝えてからだといわれている。以来、子々孫々と受け継がれ、320余年以上の伝統を誇る祭りである。

山車祭りとしての側面編集

 
横須賀の禰里

横須賀の祭り山車は、俗に「一本柱万度型」と言われる様式で、当地では一般的に「禰里(ねり)」と呼ばれる(以下本項では横須賀を含め遠州地方の一本柱万度型を「禰里」と表記する)。この一本柱万度型は遠州横須賀から主として大井川~天竜川の間の近隣地域に伝搬し、よく似た形態で実施されている。禰里は近隣地域では単に「屋台」と呼ばれている場合もある。

この一本柱万度型の山車は江戸でも神輿以上に祭りの花形であったが、電線路面電車の架線などの邪魔になることから明治以降廃れてしまい、天下祭りの様式を移植した地域に残されるのみとなっている。

禰里の構造編集

曳き車に心源棒と呼ばれる柱を立てて花飾りをし、その上に万度(万灯)と呼ばれる飾りを置く(「一本柱万度型」の呼称はここから来ている)。万度には漢籍から引用した格言が書かれており、更にその上に山車人形が飾られる。おおよそ6メートル近い高さになるため、横須賀の町内では交通信号や電線が禰里に接触しないよう、電線の位置を高くしたり交通信号を可動式にしたりするなどの配慮がなされている。

1996年(平成8年)の神田祭には一本柱万度型屋台の里帰りイベントとして、また2003年(平成15年)以降、隔年で江戸開府400年祭を記念してそれぞれ2町の屋台が東京(日比谷公園丸の内)で引き回されている。 2015年5月にも神田祭 神田明神ご遷座400年奉祝祭に参加をしている。

祭囃子編集

横須賀の祭囃子は屋台と同時に江戸からもたらされ、独自の発展をしたもので、三社祭礼囃子と呼ばれている(「江戸の三社祭の囃子」ではなく、「三熊野神社の祭囃子」であることに注意)。

演じられる曲目は枠上げ(出発)・道囃子・他町の祭会所訪問の際の役太鼓など、使われる囃子がおおよそ決められている。

屋台を曳きながら参加者が「シタシタ」の囃し声を上げるが、これは大名行列の「下に下に」を真似たものと言われ、横須賀の祭り形態が伝搬した近隣の二輪屋台の祭りの地域でもよく聞かれる。

二輪屋台の祭囃子の起源となったことから、昭和30年に無形民俗文化財第一号に指定された。

子授けの祭り編集

同時に三熊野神社の祭礼は子授けの祭りとしても有名である。三熊野神社は701年大宝元年)、文武天皇皇后藤原宮子の皇子(後の聖武天皇)誕生の折に熊野本宮をこの地に祀ったことから創建された神社で、屋台の引き回しと同時に、子授けの神事も行われている。

子授けの神事は、「おねんねこさま」と呼ばれる神子人形を抱いて三熊野神社から横須賀の町を巡り、お祓いを受けるものである。遠方からお祓いを受けに来る人も多く、横須賀の祭りのもうひとつの名物となっている。

関連項目編集