酋彦規(チュ・オンギュ、朝鮮語: 추언규生没年不詳)は、高麗王朝亡命した呉越国文士[1]

酋彦規
各種表記
ハングル 추언규
漢字 酋彦規
発音 チュ・オンギュ
テンプレートを表示

人物

編集

呉越国は地理的に不利な条件であるにもかかわらず、を挟んだ統一新羅後百済などと外交交渉をおこなっていた。かかる状況は高麗王朝に呉越国との交渉を志向させた。高麗王朝は呉越国と関係を築くため、太祖2年(919年)に呉越国に金立奇を派遣した。この時、呉越国の酋彦規は高麗王朝に亡命した[1]

呉越国から高麗王朝に渡来した人士の少なくなかったことは、『高麗史』巻一「太祖本紀」太祖二年九月の条に、呉越国の文士の酋彦規の来往を伝えた記事があり、六年六月の条にも、呉越国の文士の朴厳の来往が記録されていることからも窺える[2]

登場作品

編集

脚注

編集
  1. ^ a b 윤명철 (2014年3月31日). “해양세력 왕건과 고려의 건국”. 한국 해양사 
  2. ^ 三上次男『日本・朝鮮陶磁史研究』中央公論美術出版〈三上次男著作集5〉、1989年、270頁。ISBN 4805514345 

参考文献

編集