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金丸 定光 (かねまる さだみつ、? - 天正10年(1582年3月11日)は戦国時代武田氏の家臣。『甲陽軍鑑』によれば、金丸筑前守(虎義)の4男で、兄に金丸昌直(平三郎)、土屋昌続秋山昌詮、弟に土屋昌恒金丸正直秋山親久がいる。『甲斐国志』によれば名を「定光」「昌義」とされるが、いずれも確認されない。

 
金丸定光
時代 戦国時代
死没 1582年天正10年)3月11日
別名 助六郎、昌義[1]、道助(法名)[2]
主君 武田信玄勝頼
氏族 金丸氏
父母 父:金丸筑前守(虎義)
兄弟 昌直(平三郎)、土屋昌続秋山昌詮定光土屋昌恒正直秋山親久
土屋昌春(正明)

武田信玄武田勝頼に侍大将として仕えた。『甲陽軍鑑』によれば長兄の平三郎は永禄3年(1560年)9月以降に武田信廉の被官・落合彦助により殺害されたという次兄の昌続は土屋家に、三兄の昌詮は秋山家に養子となっていたため、筑前守の跡を継いだ。父・筑前守は元亀2年(1571年)8月8日に死去している。

天正10年(1582年)3月の織田・徳川連合軍による武田領侵攻に際して、『甲陽軍鑑』によれば助六郎は弟の土屋昌恒と共に最後まで武田勝頼に付き従い、弟に先んじて天目山で戦死する。

子に土屋左馬助昌春があり、家康次男の結城秀康に仕え、越前大野城代として3万5千石を領する。土屋昌春は慶長12年(1607年)閏4月11日に秀康に殉じたため、その子、土屋主殿忠次は5000石加増される。

脚注編集

  1. ^ 寛政重修諸家譜
  2. ^ 寛政重修諸家譜